ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.841

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と七十二

「オオキナ コエ」

 なぜか、突然、あるコマーシャルのことを思い出す。

 某新聞社のコマーシャル。

 「全ての人が、大きな声をあげられるとは限らない。気づいてもらえずに孤立していく人もいる」

 よほど斜に構えて見ようとしない限りは、このコピーに、なんの落ち度も欠点も見当たらない。その気持ちを失わず、是非、大きな声をあげられない人たちのための新聞社であってほしいと切に願う。

 素直にそう認めた上で、それは少し意地が悪すぎるのではないか、と、お叱りを受けるかもしれないけれど、あえて、あえて尋ねたい。

 「大きな声」とはナンですか。

 ソレは「善」ですか、「悪」ですか。

 「大きな声をあげられない人たち」とは、いったい、ダレですか。

 その人たちの心の中にあるものは「善」ですか、「悪」ですか。

 そもそも「善」とは、「悪」とは、ナンですか。

 ナニやら時代は、ソコのところが曖昧になりつつあるような気がして、私の心の中は、一層モヤモヤとしている。

 たとえば、以前は少数派であった過激で偏向的とも受け取れる意見が、考えが、ある人たちにとっては都合がいいのか、一部のメディアも含めたアレやらコレやらに、寄ってたかってもち上げられ、もて囃(ハヤ)され、ニジリニジリと多数派へと移行しつつある、というこの感じ。この感じは、「憲法」に対する考えや、「原発」に対する考えや、「防衛」に対する考えや、「核武装」に対する考えの、このところの微妙な変化の中にも見受けられたりするものだから、不気味だ。

 世の中には、大きな声をあげて良いモノと、そうでないモノとがある、はず。人々の幸せに、この国の、この星の、平和に、未来に、結び付かないようなモノを、大きな声にしてしまうコトの罪は、極めて深い。(つづく)