はしご酒(Aくんのアトリエ) その七百と五十九
「エライヒト ノ コトバ ノ オモミ」
エライ人。
シモジモじゃない、おエライ人。
の、その「エライ」、申し訳ないが微塵も誉め言葉ではない。
けれど、けっして単なる嫌味(イヤミ)で言っているわけでもない。ナゼなら、エライ人であってほしいと思う私の心に嘘偽りはないからだ。つまり、エライ人は、正真正銘、エライ人であってほしいのである。なのに、あの人たちは、ナゼ、エライ人になることを、エライ人であることを、いとも簡単に放棄できてしまうのか。不思議でならない。
ある、地方自治体の首長の記者会見を見たりするにつけ、その思いが、一層、ブクブクと膨れ上がる。
「シモジモじゃないあの人たちは、そのあたりの通りすがりのオッチャンやオバチャンの言葉の重みとは根本的に違う己の言葉の重みを、理解しているのでしょうか」
「言葉の重み?」
さすがのAくんも、あまりの唐突さに、少し、困惑気味のように見える。
「はい。大いなる責任ある立場のあの人たちの、言葉の重みを、です」
「言葉の重みを、ね~・・・」
しまった。
困惑ついでに、Aくん、テーブルの上を片付け始める。
ヤバい。
そのまま、またまた奥へと。
うわ~、・・・ま、いいか。
強引に、気を取り直して。
たとえば、先日の、記者会見。
己の責任問題にまでも発展しかねない、捨て置けない、トンでもない問題が起こり、ソレを調査するために第三者による委員会を、予算を組んで、血税を投入して、立ち上げた場合、素人考えでも、普通、その手の調査結果を公表することは、公人としての、首長としての、当然の義務だと思うのだけれど、ソレを、結果によっては公にしない場合もある、などと、平然と、呑気に宣えてしまえるのは、いったい、ナゼなのか。
仮に、もし、コレもまた、例の、あの、不都合なコトは闇から闇へと葬り去るというコトであるなら、けっして許されるコトではない。
トにもカクにも、言葉も、当事者意識も、問題意識も、ナニもカも、が、イヤになるほど軽いのである。
実は大してエラくもナンともないその手の「エライ」人たちの、その、言葉の重みのあまりの無さに、ますます、学歴やら職歴やらといった肩書きなんてモノは、ソコに拘(コダワ)りたい人だけがバカみたいに拘っているだけのことであって、やっぱり、その人の本質とはナンの関係もないんだ、と、いうコトを、あらためて、思いっ切り思い知らされた思いだ。(つづく)