ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.369

はしご酒(4軒目) その百と二十

「ホソボソト ノ ススメ」

 法や規制のスキマをかい潜り、実にウマイ具合に時流に乗って、それなりに、お金やら権力やらを手に入れたウハウハな人たち、ってのが、結構いたりする、とAくん。

 自分自身のこととなると、おもわず、ちょっとネガティブになりがちな(ようにも見える)Aくんなのだけれど、シモジモじゃないエライ人たちに対しては、心配ご無用、あいかわらずのAくんらしさ、目一杯、で、気持ちいい。

 たとえば、いわゆる「危機」というものが、ナニかの弾みで舞い降りてきたその瞬間に、そんな、お金やら権力やらといった薄っぺらなものは、たいてい、パ~っと消えてしまう、ということは、よくあることだ、と、なかなか手厳しいAくん。

 あの奈良県の、参拝者も観光客も絶えない、ある有名なお寺のお坊さんが、こんなことを呟いていたことを思い出す。

 「ある日突然、サ~っと潮が引くように、誰も、お参りに来られなくなります。それほど人の心は、時の流れは、うつろいやすい、ということです」

 深い、深いな。

 以前から私は、「達観(タッカン)」という言葉は、一つの心のあり方の到達点だと、思っている。仮に、このスペッシャルな境地に万人が達することができれば、そう簡単には、絶望感に打ちひしがれたりすることも、パニックに見舞われたりすることも、ないのではないだろうか。

 となると、結局は、ナニゴトも、「心」が全て、ということになるのかもしれない。しかしながら、とはいうものの、悲しいかな、人々の心ってヤツは、とてつもなくひ弱で、どこまでもうつろいやすく、いつだってバタバタと慌ただしい。

 良きにつけ悪しきにつけ、どんなメリハリであろうとも、とにかくヤタラとメリハリを好む人たちにとっては物足りないのかもしれないけれど、私は、やはり、ウハウハではなく、ホソボソと暮らせることの素晴らしさを大切にしたい。そのためにも、「達観」できる、そんな自分でありたい、と、ホソボソと、思う。(つづく)