ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.170

はしご酒(2軒目) その七十二

「アタル!」

 よほど気に入ったのだろう、静かに、舐めるように、転がすように、チビチビと、その泡盛の古酒を味わっていたOくん、突然、堰(セキ)を切ったように、「今さっきの畏怖の念、なんとなく引っかかって、自分なりに考えてみたんやけど」、と、ボソリと呟いたあと、一気に、一気に加速しながらブイブイと捲し立てる。

 「どんだけ立派に見える人やっても、もともと人なんか完璧やあらへんし、弱くもあるし、横道にも逸れるやろ。そのココロの隙間にやな~、魔物がすり寄ってくる、てなことも、当然、あるかもしれへんし。だから、だからこその、自分を、自分自身を、戒める、っちゅう意味の『バチが当たる』やと思てる。せやから、バチが当たらんように、ホンマにチャンとせなアカン、という、そのココロモチが大切なんや。せやのにもかかわらず、『なにがバチが当たるや~、そんなもん当たりまっかいな。アホも休み休みに言いや~』などと平然とホザくヤカラに限って、信じられへんようなトンでもないしょ~もないことを、いとも簡単にしでかしてしまうんとちゃうやろか。どや、・・・ほな、そろそろ、おいとまさせて、もらいまっさ」

 以前から私は、いわゆる宗教法人的なそんな宗教とは少々ニュワンスが異なる「宗教心」というものの必要性を(漠然とながら)感じている。

 自然界でも天界でも、ソコに鎮座する、科学ごときでは到底説明などできない、超越したナニか得体の知れない聖なるモノ、に、畏(オソ)れを抱く。敬(ウヤマ)う。身を委(ユダ)ねる。ナニかを託す。そして、感謝を伝える。コレが私にとっての宗教心である。

 その宗教心を端的に言い表したモノが、いまOくんが熱烈に語ってくれた「『バチが当たる』を舐めたらエライ目にあうで」理論なのだろう。もちろん、存分に共感できる。

 ん、ん?、えっ。ほ、ほな、そろそろ、お、おいとま!?

 「も、も、も~、おいとま、おいとまですか!?」

(つづく)