はしご酒(2軒目) その七十一
「ケシサル!」
こんな私だけれど、小学2年生の時(だったか)、学級委員長という大役を担ったことがある。だがしかし、残念ながら、不運にも、コレが分不相応な大役であったということを見事に露呈せしめた、ちょっとした事件が起こってしまった(というか、起こしてしまった)のである。
ナニをヤラかしてしまったのか。
学級委員長である私の朝一番の仕事は、先生が教室にやって来るまでに黒板の前に立ち、出欠確認をし、職員室前に吊るしてあった出欠用紙に記入する、というものであったのだけれど、コレが、ホントに、イヤでイヤで仕方なかった。
ワイワイガヤガヤなその教室のムードを制するかのように、10才前後の超若輩者が、皆を着席させて点呼するのだ。いま考えても、かなり辛い。
そして、そんな私は、ついに、トンでもない行動をとってしまう、ことになる。
ある日の朝、その吊るされていた用紙の束を、裏門から出たところに流れるドブ川に、捨てた、のだ。
なぜ、私の犯行であるということがバレてしまったのか、ソコは今も謎なのだけれど、たいした時間の経過もないうちに、私は職員室に呼び出されていた。
「捨ててしまえば、もうしなくていいと思った」みたいなことを、ベソをかきながらブツブツと宣っていたように記憶する。
捨ててしまえば、消し去ってしまえば、もうしなくていい、全てから解放される。と、いう、小学2年生の稚拙で短絡的な発想。幼少の頃の黒歴史とはいえ、なんとも情けない。
だがしかし、そんな稚拙で短絡的な発想に酷似した事件やら政策やら、が、このところのオトナ世界のそこかしこでも、頻繁に見受けられるようになってきたような気がするものだから、驚く、と同時に、呆れ果てる。
どんな手を使ってでも、消し去ってしまえば、全てから解放される。誤魔化し切れる。逃げ切れる。本気で、そう思っているのだろう。
消し去った向こう側に、その先に、ナニがあるというのか。悲しいかな、おそらく、ソコには、望んでいたモノなどナニもない。少なくともあの時の私には、ナニもなかった。
ソコにあるものは、ソコに、あるものは・・・。
(つづく)