はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と二十二
「イマ イキテイル ジブン ニ タイシテ トウ」
「誰もが疑問をもたない常識。その常識の危うさ」
ん?
「いつのまにか、ソコにある、常識は、いったい、ドコからやってきたのか」
ん~。
「ひょっとしたら、トンでもない悪党が、悪党たちにとって都合がいい世の中に仕立て上げるためのツールとして、悪知恵を絞り倒して、ジワジワと、定着せしめたモノかもしれないだろ」
ん、あ~。
「そうした常識から脱却できずに、ズルズルと、ギュ~ッと縛られ、羽交い締めにされ、そして、身動きがとれなくなる」
さすがに、少し、ネガティブに考え過ぎなのではとも思うが、その感じ、わからなくはない。誰もが疑問をもたない常識やら法律やらの中に、「本当に、ソレ、真っ当?」と疑いたくなるモノが、無きにしも非ず、という思いが、ズッと以前から私の中にはある。
「ナニよりも大切なコトは、ナニゴトに対しても、本当にソレでいいのか、と、問うこと。もちろん、今、生きている自分に対しても、まず、『問う』。コレこそが『道徳』の授業の使命というか、意義、だと思うんだよな」
ハードルは高そうだが、おっしゃる通り。
こうあることが普通とか、こうあるべきとか、こうあらねばならないとか、といった、「常識」というヤツもまた、先ほどの豪華三本立てと同様、疑って掛かるぐらいで丁度いい、と、いうことなのだろう。
「ちょいと頭を冷やして、心もニュートラルにして、周りを見渡してごらんよ。とくに、あの人たちの言動の数々を、今一度ジックリと咀嚼してみれば、自(オノ)ずと、『ソレ、ちょっと、おかしいんじゃないの』というようなコトが、結構、イロイロと見えてくるはずだ」
ん~。
たしかに、イロイロと見えてきそうだ。
少なくとも、法をつくった当人たちが、法を前面に押し出して、法に照らしてとか、法に則(ノット)ってとか、といった具合に、ヤタラと、法が法がと宣いつつ「常識」を語り始めたとしたら、かなり要注意かも。きっと、「ソレ、ちょっと、おかしいんじゃないの」に違いない。(つづく)