はしご酒(4軒目) その百と百と九十七
「ゲドウ ノ セカイ」
芸術の道、芸の道、芸道は、外道の世界、だと、僕は思っている、と、Aくん。
「いくらなんでも、それは、言い過ぎではないですか」、と、思い切って言ってはみたものの、Aくん、そんな私の指摘なんぞに怯む素振りなど、微塵も見せることなく、サラリと、「誉め言葉だよ」、と、返してくるものだから、少々、戸惑う。
誉め言葉?
なぜ、「外道」呼ばわりが誉め言葉なのか、と、一瞬、訝(イブカ)ってはみたものの、本道(仏教用語的には、内道、と、言われているようだけれど)が、必ずしも正道である、とも、言い切れないような気が、ズンズンとしてきたものだから、一気に頭の中がゴチチャゴチャッとなる。
「なぜ、外道の外(ゲ)が、下(シタ)という漢字ではなくて、外(ソト)なのか。ソコに、外道の外道たる所以がある、ということだ」、と、自信をみなぎらせながら語るAくん。
「ヒエラルキーではない、ということですか」
「そう、ヒエラルキーではない。横関係の内と外、と、縦関係の上と下、とでは、ナニもカもが違う」
「内、ではない、外、だからこそ、芸術が芸術足り得る、ということですか」
「内には、邪魔になるモノが、いろいろとあったりするからな~」
邪魔になるモノ?
「普通に、とか、常識的に、とか、無難に、とか、堅実に、とか、といった、ノーマルっぽいモノから、お伺いをたてる、とか、媚びへつらう、とか、忖度する、とか、といった、アブノーマルっぽいモノまで、の、そういったモノモノモノは、どこからどう見ても、芸術の道、芸道にとっては、邪魔になるモノだろう、そうは思わないかい」、と、益々、自信がみなぎるAくんの持論に、おもわず引き込まれてしまう。
たしかに、そういった、ノーマルっぽいモノからアブノーマルっぽいモノまでの、凡(オヨ)そ芸術とは無縁であるべきであろうモノモノモノと、ウンと解離したところにあるものが芸術である、と、聞けば聞くほど思えてくる。
清らかな、富士山系の伏流水仕込みの純米酒を、緩く燗にしてもらったAくんは、トクトクと、波佐見焼の青磁の酒器にその酒を注ぎながら、ユルリと結論付ける。
「そうしたモノが渦巻く内側の、その外側にあるもの、あるべきもの、という意味で、僕は、芸道は、外道の世界だと言っているわけだ」
(つづく)