ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.556

はしご酒(4軒目) その百と百と九十七

「ゲドウ ノ セカイ」

 芸術の道、芸の道、芸道は、外道の世界、だと、僕は思っている、と、Aくん。

 「いくらなんでも、それは、言い過ぎではないですか」、と、思い切って言ってはみたものの、Aくん、そんな私の指摘なんぞに怯む素振りなど、微塵も見せることなく、サラリと、「誉め言葉だよ」、と、返してくるものだから、少々、戸惑う。

 誉め言葉?

 なぜ、「外道」呼ばわりが誉め言葉なのか、と、一瞬、訝(イブカ)ってはみたものの、本道(仏教用語的には、内道、と、言われているようだけれど)が、必ずしも正道である、とも、言い切れないような気が、ズンズンとしてきたものだから、一気に頭の中がゴチチャゴチャッとなる。

 「なぜ、外道の外(ゲ)が、下(シタ)という漢字ではなくて、外(ソト)なのか。ソコに、外道の外道たる所以がある、ということだ」、と、自信をみなぎらせながら語るAくん。

 「ヒエラルキーではない、ということですか」

 「そう、ヒエラルキーではない。横関係の内と外、と、縦関係の上と下、とでは、ナニもカもが違う」

 「内、ではない、外、だからこそ、芸術が芸術足り得る、ということですか」

 「内には、邪魔になるモノが、いろいろとあったりするからな~」

 邪魔になるモノ?

 「普通に、とか、常識的に、とか、無難に、とか、堅実に、とか、といった、ノーマルっぽいモノから、お伺いをたてる、とか、媚びへつらう、とか、忖度する、とか、といった、アブノーマルっぽいモノまで、の、そういったモノモノモノは、どこからどう見ても、芸術の道、芸道にとっては、邪魔になるモノだろう、そうは思わないかい」、と、益々、自信がみなぎるAくんの持論に、おもわず引き込まれてしまう。

 たしかに、そういった、ノーマルっぽいモノからアブノーマルっぽいモノまでの、凡(オヨ)そ芸術とは無縁であるべきであろうモノモノモノと、ウンと解離したところにあるものが芸術である、と、聞けば聞くほど思えてくる。

 清らかな、富士山系の伏流水仕込みの純米酒を、緩く燗にしてもらったAくんは、トクトクと、波佐見焼青磁の酒器にその酒を注ぎながら、ユルリと結論付ける。

 「そうしたモノが渦巻く内側の、その外側にあるもの、あるべきもの、という意味で、僕は、芸道は、外道の世界だと言っているわけだ」

(つづく)