ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.726

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と六十七

 「シミヤラ ゴミヤラ ノ イミヤラ」

 ナンてことのない雑談とか、どうでもいいようなものだけれど妙に気になる細やかなる出来事とか、あるいは、見逃しがちな小さな落書きとか、といった、生活の中の「シミ」みたいなモノから、キラリと光るナニかが始まる、というコトって、結構、あったりするんだよな~、と、シミジミと語り始めた、Aくん。

 生活の中の、シミ、か~。

 あっ。

 そう言えば、以前に、ソレに似た話を、ドコかで耳にしたことがある。

 大慌てで、脳内コンピューターをフル稼働して思い出そうと試みる。

 ある政治関係のシモジモじゃないエライ人(というか、どちらかと言うと、エラソウな人、だな)が、大学の学部なんてモノは、実益や実用性、即効性、こそが、キモ。結果がハッキリと見える、わかる、「使える学部」こそが価値ある学部で、ソレだけでいい、充分だ、みたいなことを、その雰囲気と同じくエラソウに、宣っていたのである。おそらく、Aくんが言うところの「シミ」のような学部ではダメだということなのだろう。つまり、シミみたいなモノからはナニも生まれない、と。オマケに、税金を投入しているのだから、無駄にならないようにしてもらわないと、と、まで、宣い出す始末。

 あっ。

 そうだ、そのエラソウな人のその言葉に対する、ある大学関係者のコメントだった。思い出した、間違いない。

 最初からコレだ!、などというモノはありはしない。数多ある「ゴミ」のようなモノの中に、奇跡的にすこぶるマレに、コレは!、というモノが潜んでいたりする。研究なんてものは、そもそもそういうモノなのだ。だからこそのソコからの爆発だ、みたいな、そんな感じの内容であったと思う。

 するとAくん、私の、限りなく独り言に近い「ゴミの中からイミあるコレが爆発する」理論、を、受けて、の、そんな、「シミ」やら「ゴミ」やらに潜む、かもしれない、そのイミ(意味)こそが教育なんだ、と、わかりにくさは満載ながらも、熱く、熱く、熱く、独自の教育論。

 「ほとんど無駄なままで終わってしまうような雑談や落書きや、手当たり次第の雑多で意味不明な取り組み、といったモノの中から、が、むしろホンモノのキモ。そりゃ、当然、邪魔臭いコト、トラブル、なんぞも、ポコポコッと生まれてくるかもしれないけれど、それ以上に大切な、とても大切なナニかが、ソコから生まれてくるかもしれないわけで、だから、だからこそ、無難にやり過ごそうとするのでなく、ナニかを生み出そうとするのなら、ナニかを生み出したいのなら、そんな、生々しいライブ感溢れる教育の現場でなければならない、って、心の底から思うんだよな~、僕は」

(つづく)

 

 

 

 

追記

 ここ数週間、ズルズルと結論を出せないままでいる。

 ただ、どちらかしか開催をすることができない、というのなら、私は、些(イササ)かの躊躇もなく、パラリンピック、と、答えるだろう。

 それでも私は、それを、会心の決断だとは思っていない。

 この、トンでもない嵐の中で、オリンピック、パラリンピック、は、どうあるべきなのか。

 私の思いは、切なくなるほど、情けなくなるほど、ずっと揺れ動いている。