ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.781

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と十二

「ヤヤコシクナヤマシイ? ゲイジュツ ト スポーツ ト」

 そんな、どこまでも浮かばれない捨てゼリフを残して、またまた沈黙の世界に入り込んでしまったAくんには、もう少し一休みしておいてもらうことにして、以前から気になっているもう一つのことを、ほんの少しだけ深めてみたくなる。

 今宵も、随所で、芸術やらスポーツやら、と、ソレらに絡む、権力やら民意やら血税やらナンやらカンやら、やが、話題に上る。 

 言い換えれば、それほど、こんな時代だからこそ、芸術やらスポーツやらに求める期待が大きいのだ、と、いうことなのかもしれない。

 そんな期待の星の、まず、芸術。

 そのためにも芸術は、ナニものにも屈せず、あらゆる柵(シガラミ)から解放された、純粋に自立した芸術として、凛(リン)としてソコにある必要がある。にもかかわらず、悲しいかな、そうは問屋が卸してくれそうにないのは、芸術の自立が、そんな易々とできるものではないからである。

 たとえば、私が知る限りでも、古今東西、どの分野においても芸術は、一部を除いてそのほとんどが、経済的にアップアップだと言っても過言ではない。だから、どうしても権力に、あるいは、血税に、頼りがちだ。ひょっとするとそれは、致し方のないことなのかもしれない。下支えがあるからこそ守れるモノがある。守るべきモノが守れるのなら、ナンとしてでも守らなければならない。だが、しかし、芸術によっては、その代償として、肝である魂を抜かれてしまうことだってあり得るのだ。ソコが、目一杯、ヤヤこしく、ナヤましいのである。

 そんな期待の星の、もう一つ、スポーツ。 

 そのためにはスポーツも、ナニものにも屈せず、あらゆる柵から解放された、純粋に自立したスポーツとして、凛としてソコにある必要がある。にもかかわらず、悲しいかな、そうは問屋が卸してくれそうにないのは、スポーツの自立もまた、そんな易々とできるものではないからである。

 どちらかと言えば、インドアな私にとって、芸術以上によくわからない「スポーツ」。とくに、あの「オリンピック」が抱える「巨額の血税との切っても切れない濃厚な間柄」問題は、政治をも思いっ切り巻き込んで、芸術以上にヤヤこしく、ナヤましくしているようだ。

 しかし、なぜ、大いなる期待を担った芸術でありスポーツであるにもかかわらず、そんなことになってしまうのか。

 私ごときでは、その謎を、そう簡単には解明できそうにないけれど、一つだけ、自信をもって言えるコトがある。それは、芸術やスポーツ自体に罪はない、というコトである。罪は、ソコにはない。罪は、むしろ、その周囲で、しれっと悪臭を放ちながらモゾモゾと蠢(ウゴメ)いている。

 芸術やスポーツに罪はない。

 芸術やスポーツには、絶対に、罪はない。

 このコトだけは、ヤヤこしくもナヤましくも、ない。(つづく)