はしご酒(2軒目) その十
「ヨッ ハルダンジ!」
Oくんの、アクは強いけれど妙に心地よい大阪弁を聞いているうちに、幼少の頃に、たまたまTVで見た、大阪弁まみれの、ある映画の、とくに不思議なラストシーンのことを思い出す。
1960年代に製作された、マキノ雅弘監督の『色ごと師春団治』という映画の、そのラストシーンである。
「幼少の頃に見た『色ごと師春団治』という映画のそのラストシーンだけが、ナゼか、未だに、忘れられないままなんです」
「そんな映画、普通、幼少の頃には見まへんで~」、と、Oくんに突っ込みを入れられつつも、聞こえないフリをして話を続ける、珍しく強気な私。
「藤山寛美演じる桂春団治が、いよいよあの世へ、というまさにその時、彼の魂がス~っと幽体離脱して、フワ~っと浮き上がっていく。そして、部屋の天井あたりから、悲喜こもごもの皆の様子を見下ろす。生前、唯我独尊、ゴーイングマイウェイが信条であった春団治。当然のごとく、周りのコトなど全く見えない、見ようともしない。そんな彼が、皮肉にも、その時になって、初めて、一人ひとりの内面を見ることに、知ることになる。大昔のことなので、思い込みもあろうかとは思いますが、おそらく、そんな感じだったと思います」
「ほ~。たしかに面白そうやな。春団治だけに、きっと、チヤホヤされてきたんやろうから、死んで初めて、今まで関わってきた周囲の人々の本心を垣間見ることになるっちゅうことやろ。と、なると、もう、ほとんど、ちょっとしたスリラー映画やな」
ほとんど、ちょっとしたスリラー映画、か~。
たしかに、見ようによってはスリラー映画に、見えなくもない、か。
ただし、私が、この映画の、このラストシーンに感じたのは、そんなスリラースリラーした人の心の二面性の闇みたいなコトなんかではなくて、むしろ、もっと哲学的でいて軽やかな、目から鱗(ウロコ)の教え、かな~。
「つまり、いったんクールダウンした上で、今一度、少し離れたところから、落ち着いて、全体を見下ろしてみることで、見渡してみることで、今まで見えなかったモノが見えてくる、ということを、ひょっとすると、春団治の半幽霊は、ユルリと私たちに教えてくれていたんじゃないか、と、いうコトを、漠然と、ボンヤリと、思いつつ、幼き私は、そのラストシーンを見ていたような気がします」
「ホンマかいな。ホンマにそうやったら、たいした感性やで、ホンマに。俯瞰(フカン)することの大切さをソコから感じ取れたチビッ子なんて、そうそうおらんで」
おもわず、少し、照れてしまう。たしかに、あの頃の私は、人生史上、最も、感性が豊かで、鋭かったかもしれない。
ソレはソウとして、ココで、一つ、気になっていることがある。
もちろん皆が皆、というわけではないとは思う。ないとは思うが、どうしても、どうしても、権力をこよなく愛すシモジモじゃないエライ人たちというのは、より大きな権力を握れば握るほど、そういった春団治のユルリとした教えに、耳を傾けたくなくなるのでは、と、思えて、思えて、仕方がないのである。(つづく)