ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.109

はしご酒(2軒目) その十一

「ヤサイダマシイ ハ ヤマトダマシイ

 肉も、魚も、たしかに美味しいけれど、(食卓の脇役と思われがちな、あの)野菜にも、もう少し注目したほうがいい。それぐらい、農家の方々が拘(コダワ)りに拘り抜いて育てた野菜は、パワーとエナジーも満ち満ちて、本当に、美味い!。どころか、人間を、その内側から「浄化」さえしてしまう、底知れぬ優れモノであるとさえ、私は思っている。  

 たとえば、巷を賑わしている、このところの、あの、「魔物に取り憑(ツ)かれた」としか思えないような残忍非道な事件の数々もまた、ひょっとすると、野菜たちが、本来もっているはずのパワーとエナジーの量の低下が、密切に関係しているのではないのか、と。そうしたパワフルな野菜たちをシッカリ食べないから魂が乱れてしまうのではないのか、と。どうしても、思ってしまうのである。

 つまり、その国の、その野菜に含まれるエナジーとパワーの量が、そのまま、その国のピーポーたちの、ものの考え方や価値観、方向性、そして、未来にまで影響を与えてしまっているのではないのか、ということ。この指摘、大袈裟と思われるかもしれないが、まんざら的外れでもないような気がする。

 たかが野菜、されど野菜。なのである。

 野菜を軽んじることは、その国のピーポーたちのみならず、その国そのものまでもを軽んじることに繋がる。そのような国に未来などあろうはずがない。パワーとエナジーが満ち溢れた野菜あってこその国であり、その国の未来なのである。

 私が、めっぽう熱く「野菜のパワーとエナジーがその国の未来をつくる」理論を語り始めたことに、なにかしらの「後ろめたさ」のようなものを感じたのだろうか。あと一歩というところで、「若ゴボウの炒め煮」の登場によって、悲劇の「サヨナラ~」に至らしめられたあの「レンコンのきんぴら」を、Oくんは注文したのだ。

 「野菜魂は、大和魂やっちゅうことやな」

 野菜魂は大和魂、か~。

 遅ればせながらもレンコンのきんぴらを注文してくれた、からというわけではないけれど、いつもながらの意味不明感満載であるにもかかわらず、ナゼか、妙に、ス~ッと腑に落ちた、落ちてしまった、Oくんのプチ名言なのである。

 そう。野菜魂は、大和魂

(つづく)