ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1167

はしご酒(Aくんのアトリエ) その五百と九十八

「セカイハ ウツクシイト」

 ナニ気に、その、粗末な本棚から、たまたま抜き出した一冊の本。たいした期待もせず、パラリパラリとページをめくる。すると、ある一編の詩が、目に、スルリと飛び込んでくる。ナゼだろう、そのまま、一気に、ラストまで、アッチェレランド(accelerando )に読み通してしまう。

 

 世界はうつくしいと。

 長田弘

 

 初めて目に、耳に、する。

 あまりにも忙(セワ)しなく読んでしまったものだから、とりあえず、一度、大きく深呼吸。気持ちをリセットして、落ち着いて、もう一度、ユルリユルリと読み返す。

 

 うつくしいものの話をしよう。

 

 いつからだろう。ふと気がつくと、

 うつくしいということばを、ためらわず

 口にすることを、誰もしなくなった。

 そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。

 

 うつくしいものをうつくしいと言おう。

 

 風のにおいはうつくしいと。

 渓谷の石を伝ってゆく流れはうつくしいと。

 午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。

 

 遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。

 きらめく川辺の光はうつくしいと。

 おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。

 

 行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。

 花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。

 雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。

 

 太い枝を空いっぱいにひろげる

 晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。

 

 冬がくるまえの、曇り日の、

 南天の、小さな朱い実はうつくしいと。

 

 コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。

 過ぎて行く季節はうつくしいと。

 さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。

 

 一体、ニュースとよばれる日々の断片が、

 わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。

 あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。

 

 うつくしいものをうつくしいと言おう。

 

 幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。

 

 シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。

 

 何ひとつ永遠なんてなく、いつか

 すべて塵にかえるのだから、

 世界はうつくしいと。

 

 うつくしいモノを、ただ、「うつくしい」と言っていればソレでいい、という時代ではないだろ、と、宣われる方もおられるかとは思うが、だからといって、きたないヤツを、ただ、「きたない」と罵(ノノシ)っていればソレでいい、という時代であるとも、到底、思えない。

 むしろ、これほどまでに、無慈悲な、誹謗中傷やらバッシングやらクレームやらで溢れ返った時代であるからこそ、この詩は、ナンの抵抗もなく、ごく自然に、私の心に沁み入ってくるのだろう。

 とくに、ラスト三行が、その「すべて塵にかえるのだから」のその「だから」が、たしか、仏教の、「塵(チリ)の中に無限の宇宙がある」だったか、なんとなく、ソコにも繋がっていくような気がして、更に一層、この詩がもつ「深さ」を、漆黒の闇の深さとはまた別の、全くもって異なる「深さ」を、そして、希望の光がドコまでも届くほどの透明感のあるその「深さ」を、私は、感じるのである。(つづく)