はしご酒(Aくんのアトリエ) その五百と九十八
「セカイハ ウツクシイト」
ナニ気に、その、粗末な本棚から、たまたま抜き出した一冊の本。たいした期待もせず、パラリパラリとページをめくる。すると、ある一編の詩が、目に、スルリと飛び込んでくる。ナゼだろう、そのまま、一気に、ラストまで、アッチェレランド(accelerando )に読み通してしまう。
世界はうつくしいと。
長田弘。
初めて目に、耳に、する。
あまりにも忙(セワ)しなく読んでしまったものだから、とりあえず、一度、大きく深呼吸。気持ちをリセットして、落ち着いて、もう一度、ユルリユルリと読み返す。
うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風のにおいはうつくしいと。
渓谷の石を伝ってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光はうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎて行く季節はうつくしいと。
さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の断片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、
世界はうつくしいと。
うつくしいモノを、ただ、「うつくしい」と言っていればソレでいい、という時代ではないだろ、と、宣われる方もおられるかとは思うが、だからといって、きたないヤツを、ただ、「きたない」と罵(ノノシ)っていればソレでいい、という時代であるとも、到底、思えない。
むしろ、これほどまでに、無慈悲な、誹謗中傷やらバッシングやらクレームやらで溢れ返った時代であるからこそ、この詩は、ナンの抵抗もなく、ごく自然に、私の心に沁み入ってくるのだろう。
とくに、ラスト三行が、その「すべて塵にかえるのだから」のその「だから」が、たしか、仏教の、「塵(チリ)の中に無限の宇宙がある」だったか、なんとなく、ソコにも繋がっていくような気がして、更に一層、この詩がもつ「深さ」を、漆黒の闇の深さとはまた別の、全くもって異なる「深さ」を、そして、希望の光がドコまでも届くほどの透明感のあるその「深さ」を、私は、感じるのである。(つづく)