ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1182

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と十三

「ショウケン ショウシユイ ショウギョウ」

 「自分とは、全く異なる意見、考え、価値観、の、相手が、今、ソコにいる、と、しよう」

 ん?

 「そんな『あなた』に対して、君は」

 そんな「あなた」に、私が?

 「あなたのその意見の、考えの、真意。ソレを、無性に知りたくなる。それゆえ、そんなあなたに、あなたの言葉に、最大限に耳を傾ける」

 ん~。

 「あるいは、あなたの、その考えではダメなんだ。そのダメさ、間違い、勘違い、を、気付かせてあげないと。と、全力で説得を試みる。場合によっては力付くででも」

 んん~。

 「もしくは、あなたなんかに、誰も注目なんてしていない。なのに、ナゼ、バカみたいに熱くなって、強きモノを批判して悦に入っているんだよ。ま、そうやって、自己満足だけで生きていけばいいじゃん。と、冷ややかに、ほくそ笑む」

 んんん~。

 「さ、君なら、どうする」

 見事なまでの三者三様。

 さて、どうしたものか。

 「ドレにも」

 「ん?」

 「ドレにも、当てはまらない、かも、しれません」

 「ドレにも、かい」

 「ドレにもです」

 ナゼなら、そもそも、そうした相手に対して「距離を置く」のが私のスタンス。だから、必要以上に「知ろう」とも、「諭(サト)そう」とも「バカにしよう」とも思わない。

 「『あなた』に、ソコまで関わろうとしない私にとって、どのタイプもピンとこないのです」

 「知ったこっちゃないか」

 「知ったこっちゃない、とまでは言いませんが、人それぞれですから」

 「人それぞれ、ね~」

 「随分とタイプが違う三者に見えますが、『上から目線』という点では共通しているようにも見えますから」

 「上から目線、ね~。なるほど。たしかに、なんとなく、三者とも上から目線だ」

 と、エラそうに宣ってはみたものの、あまり褒められたモノじゃない、という思いも、シッカリとある。私にとっての「距離を置く」は、ほとんど「無難にやり過ごす」と同じだからだ。所詮、コトなかれ主義。単に人間関係が壊れてしまうことを恐れているに過ぎない。

 「それでも。それでもだ。もし、その『あなた』が強引に、理不尽に、君にアクションを起こしてきたとしたら、どうだい」

 強引に、理不尽に、か~。

 「その時でさえも、君は、『人それぞれですから』と逃げを打つつもりかい」

 逃げを打つ、・・・。

 情けない話だが、その時でさえ、私は、ズッと、無難に、やり過ごしてきたような気がする。

 「そのアクションが、君を、君の生活を、未来を、脅(オビヤ)かす、トンでもないアクションであるなら、やはり、捨て置くわけにはいかんだろ。違うかい」

 違わない。違わないが、今、ココにいる私は、そうすることしかできない、そうすることで生きてきた、「私」なのである。

 なんだか、目一杯、滅入ってきた。

 だけど、Aくんが言うように、捨て置くわけにはいかないだろうな。

 「だからこその、正見(ショウケン)」

 しょ、しょうけん?

 「いかなる先入観も邪念も、排除。そして、クールに、目を、耳を、心を、開いて」

 目を、耳を、心を、・・・。

 「正思惟(ショウシユイ)」

 しょ、しょうしゆい?

 「文字通り、正しき思惟。うわっ滑りではない洞察力。その洞察力で、もって」

 うわっ滑りではない、洞察力、・・・。

 あっ。

 ひょっとしたら、先ほども話題に上がっていた八正道(ハッショウドウ)、か。

 「そして、トドメの、正業(ショウギョウ)」

 「正業。たしか、正しき行動。ですよね」

 「そう。その、トドメの正道、正しき行動がなければ、いくら目を、耳を、心を、開こうが、深く洞察しようが、ほとんど意味がない」

 ほとんど意味がない、・・・。

 ふ~。

 正業、か~。

 正しき行動どころか、どのような行動であれ、行動を起こすこと自体が、情けなくなるほど苦手な私にとって、その正業、ナニよりもハードルが高い。(つづく)