はしご酒(Aくんのアトリエ) その五百と弐
「レイショウケイ」
よほどの自信があるからなのか、より深い学びが、より深く学ぼうとする気持ちが、ほとんどないものだから、建設的なディベートができない。する気さえない。ハナから相手を上から目線でバカにする。嘲(アザケ)り笑いすらする。という、冷笑(レイショウ)系なるピーポーたちがナニ気に存在感を、チカラを、もち始めているコトに、Aくんは、警鐘を鳴らし続けている。
そんな、冷笑系ピーポーとは、いったい、ナンなのだろう。
まず、まず言えるコト。
ソレは、ナニがナンでも自己否定はしない、か。
たとえば、自分の考えが、思いが、ひょっとしたら間違っているのかもしれない、とは、絶対に思わない。
あるいは、ひょっとしたら間違っているのかも、と、思い、いま一度、ありとあらゆる書物に目を通してみよう、とも、絶対に思わない。
見当違いかもしれないが、私の頭の中にある冷笑系ピーポーのイメージは、そんな感じだ。
もちろん、ソコに、ナニゴトにも微動だとしない頑とした不屈の信念めいたモノを感じることは、できる。その不屈さ、実にタイしたものだと思えなくもない。が、場合によっては、その不屈さが、アダとなるということも充分にあり得るのである。そのコトを忘れるべきではない。
さらに、さらにもう一つ、言えるコト。
ソレは、極めて、ネット的、か。
そう、ネット、繋がり、繋がり的。
常に、共感してくれるピーポーたちとの繋がりを意識している。仲間意識と言ってもいい。それゆえ、どうしても、共通の敵を叩きがちだ。名指しで叩く、叩きまくる。そして、叩くコトでその繋がりを強める。仲間意識を高める。
しかしながら、この、ドコからドウ見ても建設的には見えない、思えない、「繋がりづくり」システムは、「仲間意識づくり」システムは、その性格上、残念ながら「分断」しか生まない。
そして、恐ろしいコトに、そのようにして生み落とされた分断もまた、冷笑の対象となるのだ。(つづく)