ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1056

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と八十七

「セッカチ ナ ジダイ」

 Aくんが、戻ってきた。

 おっ、右手に一升瓶。

 行ったり来たり、が、面倒になったか。

 福井の辛口純米、か~。

 んっ、左手に、ナンだ?

 サ、サラダ?

 「赤カブの甘酢漬けやら、ヤーコンやら、アカネ大根やら、祝蕾(シュクライ)やら、を、全部短冊切りにして、ソコに、刻んだ壬生菜(ミブナ)の漬け物とリンゴ酢とライムも加えてグチャグチャッと混ぜ込んでみたのだけれど、どうかな~、ちょっと摘まんでみてよ」

 お言葉に甘えて、できる限り全種類が混ざるようにして摘まんでみる。

 うわっ。

 コリコリ、シャリシャリ、いい歯応えだ。

 そして、カラフルなテイストが、滲み出てくるようにジュワ~ッと口の中に広がる。

 「洋梨みたいな甘味と、妙に気持ちいい苦味。面白いですね」

 「ヤーコンと、祝蕾かな」

 「ドチラも初耳です」

 「スーパーでは見掛けない、かも」

 「リンゴ酢とライムも、いい仕事、してますね」

 「で、合うと思うんだよな~」

 そう言いながら、Aくん、トクトクと、ぐい呑みに注ぎ入れる。

 もう一摘まみ。同じようにガサッと。

 けっして遅れまいと、グビリ、と、そのアトを追う。

 お~、スッキリ、爽やか。

 「いいですね、コレ」

 「良かった」

 そう言いつつAくんも、グビリと。

 「うんうんうんうん、いい酒だ」

 するとAくん、突然、得意の面舵いっぱいでギュンと話題を変えて、ナニやらボソボソと語り始めたのである。

 「ちょっと音楽でも聴こうか」

 「えっ!?、こんな深夜に、ですか」

 「いやいや、聴かない聴かない。たとえば、たとえば、の、話だ」

 ん?、あ、あ~。

 「たとえば、コレクションのLP盤たちを一枚一枚摘まみ出しては引っ込める。もちろん、ジャケットも気になる。それゆえ、なかなか決められない。どうにかこうにか、その一枚をチョイス。レコード盤を念入りにチェックしつつクリーナーでホコリを取り去る。ターンテーブルに乗せる。慎重に針を下ろす。微かなピチピチ音。コレがまた、堪らない。イントロが聴こえてくる。ボリュームを調節する。ライナーノーツに目を通す。まだイントロ。まだまだイントロ。ピンク・フロイドだからな~」

 うわっ、ピンク・フロイド、か~。

 「イントロが、あたかも、相撲の立ち合いまでの仕切り直しのように、ジワリジワリと迫ってくるようなあの感じ、けっして侮るわけにはいかない。にもかかわらず、巷では、イントロとばし、やら、間奏のギターソロとばし、やら、倍速鑑賞、やら、が、流行っているとかいないとか。少なくとも、針がレコード盤の上を疾走している間は、全部マルッと一つの芸術作品なんだよな。違うかい?、そうは思わないかい?」

 そう、一気に、「全部マルッと一つの芸術作品」理論を熱く展開してみせた、Aくん。もちろん、私も、同感だ。

 だがしかし、私を襲う「劣化」もまた、否定できない、如何ともし難い、事実。若い頃のアレほどの「音」への拘(コダワ)りが、「利便性」という嵐によって吹き飛ばされて、もう、音楽を、ソレなりに心地よい一つの「情報」としてとしか捉えられなくなってきたような、そんなコトになりにけり、なのである。

 「私も含めて、芸術作品として、というよりは、情報として、受け止め始めている、のかもしれません」

 「情報として、ね~。なんか、悲しいな、ソレ」

 「ソコに、一定価格で聴き放題、見放題、などという、ナンともカンともな、ひたすらお得感を追求したようなサービスまで絡んで、ドンドンと、時代は、そんな、『セッカチな時代』になろうとしている、というコトなのでしょうね」

 「セッカチな時代、ね~」

 そう呟くと、Aくん、少し寂しげに、もう一口、グビリとやる。

(つづく)