ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1043

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と七十四

「フレキシブル デ ナイト」

 普通はコウだよね、とか、ソレが当たり前でしょ、とか、みんな一緒に、とか、同じように、とか、といった、そんな、悲しくなってくるほど同調圧力的な「ノーマルの定形化」、が、否(イヤ)が応でもドドドドドッと頭ごなしに押し寄せてくる感じ、ソレが、僕が抱いている、この国の学校教育に対するイメージだ。と、唐突に、新たなる話題に突入したAくん。瞬時の理解力に少々難アリの私が、いつものようにキョトンとしていたものだから、さらに、ソコに被せるように語り続ける。

 「いい例(タト)えではないと思うし、元学校の先生のお前がドノ面(ツラ)下げてナニを言う、と、突っ込みを入れられてしまいそうな気もしなくはないけれど、あえて、あえて話させてもらおう」

 おもわず、ほんの少しながら身を乗り出す。

 「放し飼いではなくて、息が詰まりそうなぐらい狭苦しいゲージで、一生過ごすコトを強いられたニワトリが、来る日も来る日も、皆と同じ飼料を、同じタイミングで、スピードで、同じ量、食べ続ける、みたいな、そんな感じ、とでも言えばわかってもらえるかな」

 珍しく、いい例えではないと前置きされただけあって、私も、あまりいい例えではないと思う。でも、学校での自分が、ゲージの中のニワトリのように感じてしまう子どもは、間違いなくいると思う。そんな子どもたちにとって学校は、到底、受け入れられるモノではないはずだ。

 「僕はね、子どもたちの学校教育にお金をかけるというコトと、よく言われているような教育費の無償化とは、根本的に違うモノだと思っている」

 ん?

 「教育費の無償化、と、学校そのものの在り方、とは、まったく別の次元の話」

 んん?

 「つまり、ワンカラーなどであるはずがない多種多様な子どもたちが、それぞれのタイミングで、スピードで、やりたいコト、興味のあるコト、に、情熱を傾けることができるような、フレキシブルな学校でないとダメなんじゃないか、ということだ」

 「フ、フレキシブルな学校、ですか」

 「そう。普通はコウだよね、などという固定化された概念に、ガチガチにされてしまったようなモノではない、学校」

 「当たり前だと思われていた学校の在り方を、思い切って変えてみる、ということですか」

 「そう。ソレが、子どもたちの学校教育にお金をかける、というコトだと思っている」

 なるほど。

 「たとえば、義務教育時から、大学のような単位制のコースも、あっていいと思う。ライト級からヘビー級までイロイロと織り混ぜて用意された数多の授業から、子どもたちがチョイスする。そして、3コマで1単位、みたいな感じで単位を取得していく。一定数取得すれば、その時点で卒業。ノンビリ屋さんはユルリユルリと、スピード野郎はフルスロットルで。というふうに、それぞれのペースで、好きなようにやればいい」

 「義務教育で、単位制のコース、か~。そういうコースも選択肢の一つとして、あってもいいかもしれない、いや、いい、いいと思います、ソレ」

 「学びたいモノを、学びたい時に、好きなように学ぶ。という、学びの原点に、一旦、立ち返る。大切なコトだと思うけどな」

 多種多様な子どもたちのニーズに応えられる多種多様な学校を、教育を、授業を、どうにかして具現化する。たしかに、そのハードルのあまりの高さゆえ、ほぼ、夢物語のように思えなくはない。だが、だがしかし、子どもたち一人ひとりの個性を、輝きを、可能性を、心の底から大切にしたい、応援したい、という強い思いがあるのなら、その夢、ひょっとしたら・・・。(つづく)