ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.975

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と六

「ウメラレソウニナイホド フカイ ミゾ」③

 「あるまじき、あるまじき一例として」

 ん?

 「AI(エーアイ)生成の偽画像」

 んんっ!?

 「そもそも僕は、『AI』なるものを訝(イブカ)しんでいる。この手のモノって、必ずと言っていいほど悪用されるだろ」

 悪用される?

 ん。

 たしかにそうだ。

 もちろんそうじゃない方もおられるだろうが、悲しいかな、人の心などというものは、ほんの少しの良心と、数多の邪念によって形づくられているように、どうしても思えてしまう。それゆえ、利便性は、悪用の道を辿(タド)るが必然。そして、そうした良心と邪念との間の溝もまた、どうにも埋められそうにないほど深いのだろう。

 「だからこそ、新たなる利便性の導入には事前の綿密な法整備と、教育、が、不可欠」

 「法整備と、教育、ですか」

 「そう、教育。教育があってはじめて『AI生成の偽画像』などという心なきフェイクプレイに、万人が、『それはダメだろ』と言えるようになる。と、僕は思っている」

 正しき声を上げられることこそが大事、ということか。

 「つまり、自分自身の頭と心で考え、思い、ダメなコトには『ソレはダメだろ』と声に出せる。そんな自分を目指す。コレこそが教育であるはず」

 なるほど。

 「ところで、たとえば、どんなモノがあったりするのですか、そのAI生成の偽画像ってヤツの中には」

 「あってはいけないことだが、たとえば、先ほどの被災地の様子を、AIによって興味本意に、より大袈裟に仕立て上げてみせる」

 「そ、そんなコトを」

 「ソレを表現の自由と宣う者もいる。たしかに、現代アート的な表現と言えなくもない。けれど、その方向性を誤ってしまえば、現代アートも単なる愚かなる見せ物に身をやつしてしまう」

 単なる、愚かなる見せ物に、か~。

 「被災地の人々の心の痛みに寄り添えない、寄り添おうともしない。がゆえに、面白おかしくソンなコトをしでかしてしまう。コレって、決して、人として許されるコトじゃないだろ」

 な、なんというコトだ。

 「だからこその教育。学びと気付きがあってこその利便性。そうでなければ、利便性なんてモノはいつだって、人の道を踏み外し暴走しがち、だということだ」

 ふ~。

 この国の、この星の、そこかしこで見受けられる埋められそうにないほど深い溝たち。

 しかしながら、そうした溝も、Aくんの熱き愚痴に耳を傾けているうちに、その教育やらによって少しは埋まるかもしれないな、という思いがフツフツと、フツフツと湧き上がってくる。(つづく)