はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と六十四
「カルト ト シュウキョウ ト アシカリヤマ」
カルト、か~。
人知れず、さりげなく、ながらも、宗教の、というか、宗教心の、一つの心の下支えとしての必要性を訴え続けている私であるだけに、カルトなるモノの登場によって十把一絡げにして宗教を、宗教心を、語ろうとするその風潮には、ちょっとした危機感さえ抱いている。
「一般ピーポーたちが、宗教を、宗教心を、胡散(ウサン)臭く感じる時って、どんな時だと思いますか」
私なりのストレートさで問うてみる。
するとAくん、見事なまでのストレート返し。
「そりゃ、やっぱり、ドを越した『金(カネ)』だろ」
あ~。
「人の弱味に付け込んだ、脅迫やら脅(オド)しやら強要やらといった巧みな戦略的ツールの下(モト)で、ドを越した金が尋常じゃないレベルでソコに絡み始めたら、一気に胡散臭くなるだろ、普通」、と、畳み掛ける。
ん~。
けれど、「ドなんて越してないんだ」と、「ソレは正当なモノなんだ」と、「純粋なる救済なんだ」と、胸を張って堂々と言い切られたりしてしまうと、私なんかじゃ、もう、アッサリとお手上げ状態になってしまうかもしれない。おそらく、そんな感じで、ソレが当たり前のコトになり、目一杯ダークなまま平然と、ソコに居座ってしまうのだろうな。そして、なんとなく、ボンヤリと、宗教なるモノの全体が胡散臭くなっていくのだろう。などとアレコレ考えたりしているうちに、ズブズブと気持ちが重くなってくる。
するとAくん、あたかも、まるで、敗北感の沼に沈んでいくかのような私を、ソコから強引に引き上げるように、突然、プチ雄叫びを上げる。
「祇園祭!」
ぎ、ぎ、ぎおんまつり!?
さすがに驚いてしまった私は、チビチビと口に含んではシッポリと味わっていた例の芋焼酎を、おもわず思いっ切り吹き出してしまいそうになる。
「ど、ど、どうかしたのですか、その祇園祭が」
「芦刈山!」
「あ、あしがらやま!?」
「ソレは、金太郎。あし、か、り、やま」
「あしかりやま?」
「祇園祭の山鉾(ヤマホコ)の、一つ」
「山鉾の、ですか」
「そう、その一つ。強面(コワモテ)の老人が、もちろん御神体なんだけど、左手に芦(アシ)、右手に鎌(カマ)を持っているわけ。で、その芦には、もう一つ別の意味があるらしくて」
「もう一つの別の意味、ですか」
「そう、そうらしい。つまり、つまりだ。芦は、『悪し』。悪しきモノだな。その悪しきモノを鎌で刈る。刈るんだよ、ザクッ、ザクッとね。なんか、その話を聞いてからというもの、妙に気に入ってさ~、芦刈山のことが」
なるほど、悪しきモノを、刈る、か~。
宗教が、本来もっている大事なモノの中の一つ、ソレが、まさに、その、心の中の「悪しきモノを刈る」なのかもしれない。
悪しきモノを刈る。
自分の中の悪しきモノ。
その悪しきモノを、勇気をもって、刈る。
同じ「かる」でもカルトの「かる」とはナニからナニまで大違いだ。
いい、いいな~、刈る、か~。
などと、フツフツと、フツフツと込み上がってくるものがあったからだろう、私も、ズンズンと、ズンズンとその強面の老人に会ってみたくなる。
よし、次回の祇園祭には、Aくんイチオシのその山鉾「芦刈山」に、ナニがナンでも会いに行こう。(つづく)