はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と二十二
「キョウシュウノ アツアツアツアゲモーニング」
十数分前の、私の、細やかなる散歩噺(バナシ)に触発されたのか、Aくん、「ちょっとした私用で数十年ぶりに、幼少期を過ごした懐かしの町を訪れたのだけれど」、と、ボソリと語り始める。しかしながら、悲しいことに、少年Aくんが過ごした町は、既に、スッカリとその姿形を変えてしまっていたようで、「こんなことなら再訪なんてしなきゃ良かった」、と、悔いるように愚痴ることしきり。
「だけどね、なにかとお世話になったスポーツ用品店と、入り浸っていた模型店と、そして、父親が、やたらと通っていた珈琲店だけは、無事、まだ健在で、妙に嬉しくてマジで涙が出そうになったよ」、と、Aくん、感慨、も、しきり。
「良かったじゃないですか」
「ま、後悔半分、感慨半分、と、いったところかな。ただ」
「ただ?」
「当時の僕の家のお隣さんの、お豆腐屋さんが、なんと、店じまいをしていたんだよな~」
「おうちのお隣さんが、お豆腐屋さんだったのですか」
「そうそう。朝が早くってさ~、もう夜中の2時ぐらいからモーターのウイ~ンという音と共に働き始めるわけよ」
「メチャクチャ早いですね」
「そう、メチャクチャ早い」
「その音が気になったりはしないのですか」
「しないしない。生まれたときからお隣さんだから」
「なるほど」
「それどころか、テスト期間中なんかは、逆に、起きているのは僕だけじゃないんだ、お隣さんも頑張っているんだ、と、励まされたりして、徹夜で頑張れたりする」
「まさに、闘う同志、って感じですね」
「そうそう、同志、それだよ、それ」
「そのお豆腐屋さんが店じまいをされていたわけですね」
「そうそうそう、そうなんだよ。旨いお豆腐だったのにな~」
Aくんのその「旨いお豆腐だったのにな~」から、町が、時の流れの中で、その無慈悲な変化のパワーに押し潰されていく悲哀が、ちょっとした怒りや諦めやらをもグチャッと交えながら、重く漂ってくるように思えた。
「ご近所から騒音のクレームかナニかがあったのではないですか」
「クレームか~。あったのかもしれない。住人が入れ替わるとどうしてもな」
「それに、スーパーで安く売られたりもしますもんね」
「全然違うんだけどな~。味、というか、濃さだな、濃さ。それと、重いんだよ、ズンと」
「濃くて重い、豆腐ですか」
「そうそうそうそう、濃くて重い豆腐。で、さらに旨いのが、厚揚げ」
「厚揚げ、ですか」
「ソコの厚揚げが揚げたてでさ~。わかるかい、揚げたての厚揚げこそが厚揚げなんだ、というこの感じが」
揚げたての厚揚げこそが厚揚げ、か~。
揚げ物なわけだから、当たり前と言えば当たり前のことのように思えるが、そんな当たり前を当たり前でなくしてしまうのが、スーパーであり、そのスーパーを中心にした都会というモノ、で、あるのかもしれない。
「日曜日の朝は、僕が買いに行くことになっていたそのアツアツの厚揚げ、と、ワカメの味噌汁。よほどのコトがない限りそう決まっていた。おろし生姜と甘辛い砂糖醤油との相性がドンピシャに良くてさ~、その香りも含めて、今でも忘れられない郷愁の、我が家のアツアツ厚揚げモーニングなわけよ」
(つづく)