ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.586

はしご酒(Aくんのアトリエ) そのニ十七

「ジユウ ガ ジユウ ヲ」

 個性、とか、多様性、とか、表現の自由、とか、といったこの言葉たちと向き合うには、それなりの気高さを伴った、精神性や知性や包容力や正義や愛や、といったモノを、このあたりにもっていないと、話にもナニもならない、と、自分自身の胸のあたりに握り拳(コブシ)を当てながら、Aくん。その眼光は、いつもよりも鋭く感じる。

 「たとえば、表現の自由。その、極めてクリエイティブな自由でさえも、心してかからなければ、ヤヤもすると、危うさに満ち溢れてしまう、ということですか」、と、私の中に湧いた疑問を、そのまま伝えてみる。

 「他者の表現の自由を、自己の表現の自由で侵害する、ってヤツだな」、とAくん。

 「それどころか、個々の生命の自由までもが、表現の自由によって侵害される、などということは、本来の、表現の自由のあるべき姿、とるべき態度、では、ないでしょ」、と、少々、怒りも漂わせながら、私。

 「表現とはナニか、自由とはナニか、生きることの自由とはナンなのか。ソコのあたりのソンなコンなを深く考えてみることもせずして、ナニが表現の自由か、と、問いたいな」、とAくん。

 なんだか二人して、怒りの度合いが珍しく、いつもより上昇してきつつある。

 それでもAくんは、「だからといって、表現の自由が、萎縮してしまう、などということは、できうる限り、いや、絶体に、あってはならない」、と、この手の問題の難しさを浮き彫りにするかのように、慎重に、かつ、力強く、付言する。

 現代を生きる我々が、ソレを勝ち取った先人たちから引き継いだ「表現の自由」。この、ある意味究極の、その自由を行使するためには、我々がなんとなく思うこと以上の英知も気概も覚悟も、そして、正義も愛も、ソコになければならない、ということなのだろう、と、こんな私でさえも、ズンズンと思えてくる。(つづく)