ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.951

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と八十二

「シンキョウ ノ ジユウ」

 カルトと洗脳と脅迫と霊感商法と、宗教と宗教心と信心と信仰と、アゲクの果てには、氏神さまに柏手を打ったり、お地蔵さんに手を合わせたり、することまでグチャグチャッと十把一絡げにかき混ぜて語られることがあったりするものだから、どうしても、ソコのあたりが引っ掛かったまま、未だにモヤモヤし続けている。

 こうなったら、今こそ「クールトラマン」となって、もう一度クールに、宗教に、信仰に、迫ってみたくなる。

 ・・・

 ・・・

 ・・・たとえば。

 崇拝しなさい。 

 崇拝しなければなりません。

 崇拝しなければトンでもないことになりますよ。

 みたいな、ソンなことを強要されたその時点で、すでに、もう、私が思う「宗教」、「信仰」とは違う。私の頭の中の宗教辞典には、「崇拝しなさい」も「崇拝しなければなりません」も「崇拝しなければトンでもないことになりますよ」も、一切、ない。

 私が思う宗教の中心にあるモノは、ナニモノにも阻害されない「自由」。この自由が阻害されるような宗教は、少なくとも私にとっては、もはや宗教ではない。

 私は、いつだって自由に、更なる自由を求めて大空を飛び回ることができる私でなければならない。その翼がもがれることなど、絶対にあってはならないのである。

 難しいことは私にはわからないけれど、憲法に書かれている「信教の自由」とは、おそらくそういうことなのだろう、と、私は、勝手に思っている。ソコには、国による、権力による、団体や組織による、いかなる圧力も強要も脅しも存在しない。

 信教の自由とは、まさにそういった全てから解放された「自由」そのものなのである。

 あなたの自由の翼は健在か。

 あなたが自由の翼だと思っていたその翼は、あなたが自由の翼だと思わされていたその翼は、いつのまにか、大空を、自由に飛び回ることができない翼に、なってしまってはいないか。(つづく)