はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と六十二
「アヤマラナイ!」
大昔、大学の先生が、授業の中で、唐突に、「あなたが運転している車が、脇道から飛び出してきた自転車と接触してしまい、その少年が、軽いケガをしたとしよう」と切り出してきたわけよ、と、その先生の唐突さについてアレコレ言えないほどの相変わらずの唐突さで、語り始めたAくん。
とにかく、大慌てで、その現場の状況を頭の中に描こうとする。
するとAくん、「君ならどうする?」、と、オマケにソコに唐突さを被せるようにして問うてくる。
とりあえず、あまり深く考えることなく、私は、「大丈夫ですか、かなぁ」、と、答えてはみる。
「大丈夫ですか。そう、そうだよな。状況によっては、ごめんなさい、という場合もあるかもしれないけれど。まずは、普通、大丈夫ですか、が、その場合の第一声だろ。と、その先生も」
なんだかホッとする、私。
「そして、話は、更にこう続く。つまり、ソレこそが、この国の美学とされてきたモノなのだ、と」
「この国の、美学、ですか」
申し訳ないが、まるでピンとこない。
「そう、そう宣うわけさ、その先生は。要するに、ナニよりもまず相手を慮(オモンバカ)る、ナニよりもまず誠意を見せる、ことこそがこの国の美学、ということ。らしい」
やはり、どうしてもピンとこない。
「であるにもかかわらず、その美学が、外来種の到来によって駆逐されようとしている、とね」
「が、外来種、ですか」
ピンとこない、どころか、ピント外れ、とさえ思えてくる。
「簡単に言ってしまえば、謝ったら負け、という、裁判で有利に主義、だというわけだ」
「さ、裁判で有利に主義、ですか」
「この発想は、元々、この国にはなかった発想だと」
謝ったら負け、か~。
ソコに関しては、妙にピンとくる。
そういえば、たとえば、政(マツリゴト)に携わる権力者たち。そのAくんの大学の先生の指摘通り、たしかに、そう簡単には謝らない。とくに、いわゆる弁護士あがり、の、エライ人たちは、どうもその傾向にあるような気がしてならない。
もちろん、ナンでもカンでも謝ればいいってものではない、とは思う。
自分自身が考える正義を、真実を、信じ、貫く、こともまた大切。ソコのトコロが極めて難しいとは思うけれど、でも、様々な価値観をもつピーポーたちの大半が、どこからどう見ても、ソレは、見誤った施策、トンでもない発言、行動、だろ、としか思えないようなコトであったとしても、意地でも謝罪なんかしてやるもんか、という、その姿勢は、やはり、その、「裁判で有利に主義」というヤツから生まれたモノなのだろうな、おそらく。そんな思いがブワンと膨らんでくる。
「言うまでもないが、この発想、この考え方、は、未来ある子どもたちの人間形成において、成長において、決して好ましいモノではない。と、そう締め括(クク)られたあの先生、あれからどうされただろう。目指せ100才!を合言葉に、糧(カテ)に、今でも元気にされているかな~」
(つづく)