ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.550

はしご酒(4軒目) その百と百と九十一

ラクダ カレテタマルカ カルレモマタヨシ」

 なぜか再び、私イチオシの、あの、晩年の笑福亭松鶴の『らくだ』のことが、頭を過(ヨギ)る。

 私にとって、松鶴の『らくだ』は、単なる落語のネタである、ということに、留まることなく、人生の、晩年の、一つの象徴的な意味合いさえも、もつ。枯れゆく自分を見つめて、自身と、どう向き合っていくのか、どう向き合えばいいのか、という、そのあたりの葛藤みたいなものを、ジンワリと語り掛けてくれているように思えるからである。

 たとえば松鶴は、若い頃の、メリハリの利いた疾走感こそが、自分が求める本来のスタイルである、と、思い続けていたと聞く。残念ながら、晩年の、ユルリとした松鶴の話芸しか存じ上げない私にとって、松鶴落語は、まさに晩年のソレしかない。そして、松鶴の思いとは裏腹に、皮肉なことだが、そのソレに、殊更(コトサラ)ゾッコンなのである。

 こんなウダ話を、ボソボソと独り言ちていると、落語にはソレほど興味を示していないように見受けられたAくんが、ポツリと、一言、二言。

 

 らくだ、枯れて、たまるか。

 らくだ、枯れる、も、またよし。

 

 なるほど。

 「老い」と絡みに絡む、我々の晩年の、生きカタ、生きザマ、に対する、ちょっとした心地よいヒントが、松鶴と、らくだ、と、私、との間に、ギュギュギュギュギュッと凝縮しているような、そんな気が、グイグイと、してくるものだから、ソレはソレで、実に面白い。(つづく)