ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.486

はしご酒(4軒目) その百と百と二十七

「キオクニンゲン ト ボウキャクニンゲン」

 いつの頃からだろうか。

 「記憶」に比べて「忘却」は、「圧倒的な負け組感」色のペンキで、ベットリと塗りたくられ続けてきた、ように思える。

 おもわず、忘れることのナニが悪いのだ!、と叫んでみたくもなるけれど、叫べば叫ぶほど、その負け組感は、さらなる負のオーラを纏い出して、パワーアップしてしまいそうだから、タチが悪い。

 するとAくん、「なんとなく上から目線の記憶人間たちが、忘れられないがために苦しみを背負う、なんてことも、ないとは言えないわけだからな」、と、ボソリと語り出す。

 なるほど、圧倒的優位に立つ記憶人間の、その弱点が、皮肉にも、忘れられないことにある、というのは、ちょっといい気分だし、興味深くもある。

 「まさに忘却の美学。忘却があるからこそ、人は、笑顔で朝を迎えられる、その朝を美しく感じられる、の、かもよ」、と、Aくんの忘却人間擁護論は続く。

 「私は、記憶人間の圧倒的優位感が、忘れてしまうことに対する、不安感、恐怖感、を、助長しているような、煽っているような、そんな気がしてならないんです」、と、普段、ボンヤリながらも思っていることを、そのまま話してみる。

 「たとえば、年齢を重ねるにつれ、だんだんと、もの忘れが激しくなる、なんてことは、どうしようもないことだろ。その、どうしようもないことで、必要以上に落ち込んでしまう、絶望してしまう、などということは、たしかに、君が言うところの、その、記憶人間の圧倒的優位感が、ダークに影響しているのかもな~」

 あえてもう一度、心の中で、ではあるけれど、叫んでみたくなる。

 忘れることのナニが悪いのだ! 

(つづく)