ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.393

はしご酒(4軒目) その百と四十四

「ゼントタナン ココロ ノ ジュギョウ」②

 そもそも、おそらく、シモジモじゃないエライ人たちがつくりあげたのであろう現在の、そこかしこの大人の事情に配慮しまくった残りカスのような「道徳」というものに、これからの教育の肝(キモ)であるべき「心」の授業を背負わせること自体、無理がある、荷が重すぎる、と、手厳しいAくん。

 たしかに、申し訳ないけれど、道徳の授業の中身など、ナニひとつ覚えてはいない。所詮、その程度のものなのだ、という思いが、私にもある。

 「いま、ソコに生きる子どもたちのリアルな問題として、リアルに考えられるリアルなテーマを、タイムリーに授業の中心に据えなくては、そんなもの、子どもたちの心に響くはずもなく、遥か上空を素通りしていく、に、決まっている」、と、さらに手厳しさが増すAくん。

 その通りだと思う。

 たとえば、「はい、〇〇ページ開いて」などと、お決まりの文句で授業を始められても、そのままなんとなく、授業の終了を告げるチャイムが聞こえてくるまで、心ここにあらずのまま、時を過ごすことになるのだろうな、という気がしてならない。

 しかし、これだけの心の問題が、大きな問題として取り沙汰される現代社会において、なぜ、心の授業が、そのパワーを発揮することもないまま、萎(シボ)みつつあるのだろうか。

 「心の授業を、子どもたちにとって、もっとグググッとくるようなものにすることの、その目の前に、ズンと立ちはだかる最大のネック、足かせ、って、なんだと思いますか」、と、表情が険しいまま、私イチオシのオール能登の従兄弟筋に舌鼓を打つAくんに、思い切って尋ねてみる。(つづく)