ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.130

はしご酒(2軒目) その三十二

「ニホン ノ シキ ハ ニホンシキ」

 これもまた、温暖化によるものなのか否かは定かでないが(いや、きっと、温暖化が原因だな。間違いない)、ジワジワと崩れつつあるこの国の四季。とくに、パワーみなぎる「命」みたいなモノを、全身で、感じることができる芽吹きの「春」と、実りの「秋」が、信じられないぐらいアッという間に過ぎ去ってしまうような気が、このところ、ズンズンとしている。

 それでも、ドウにかコウにか、かろうじて、まだまだこの国の四季は健在で、国内外の老若男女を、心底、魅了する。

 「結局のところ、この国の四季の魅力って、ナンだと思いますか?」、と、思いっ切り唐突に、私。

 「しき?」

 「春夏秋冬の、四季です」

 「あ~、四季。四季の魅力な~。ん~、突然、四季の魅力ってナンや、なんて言われてもな~。せやな~、なんやろな~、ホンマに、ホンマになんやろ」、と、奄美大島産の茹で落花生を美味しそうに頬張りながら、少し考え込むOくん。

 そんなOくんに、「なんとなく、四季が、この国のアイデンティティをつくっている、という思いはあるのですが」、と私。

 するとOくん、「この国のアイデンティティ、な~・・・」、と、さらに考え込む。もちろん、奄美大島産の茹で落花生を頬張りながら。

 あまりにも、美味しそうに頬張るものだから、私も、たまらず、再び、その、奄美大島産の茹で落花生に手を伸ばす。

 ひょっとしたら、この茹で落花生の成分が、いま一つ冴えない私の脳内のナニかに刺激を与えてくれるかも。と、微(カス)かな期待を抱きながら。

 などと思ったりしていると、Oくん、「日本の四季は日本式」、と。

 日本の四季は日本式?

 にほん、しき、にほんしき、か~。Zさんご指摘の、例の、あの、前頭葉の老化の臭いがしなくもない。

 「日本式の、この、トンでもなくセンシティブな季節の移り変わりが、移ろいが、この国独自の、風土を、文化を、人を、つくってる、っちゅうんは、紛れもない事実やと、僕も思う。思うんやけど、都会に住んでて、その日本式、もう、そう簡単には感じられへんようになってきてる」

 都会では感じられへんように、か~。

 たしかに、街ゆく人々の服装、自動販売機のCOLD とHOTの切り替え、花粉症、そんなことぐらいしか思い付かない。もちろん、そんなモノが日本式だとは、到底、思えない。

 私が幼かった頃は、まだ、都会といえども、細(ササ)やかなる自然が、さりげなくながらも、そこかしこで、その移ろいを感じさせてくれていたような気がする。

 そうか、そう、そうだ。

 地方の、田舎の、ダイナミックな自然が醸し出すダイナミックな四季だけがこの国の四季なのではなく、そうした都会の、日々の生活の中の、ナンてことない細やかなる四季もまた、というか、むしろ、ソコにあるソレこそが日本式なのかも、と、一気に思えてくる。

 「日々の生活の中の、細やかなる、四季。季節の移ろい。たとえば、『旬』」

 「しゅん?。あ~、旬。旬な~。ホンマや、ホンマやな。その季節季節に、その季節だからこその旨いモノがある。野菜でも、果物でも、魚でも」

 「鰹(カツオ)なんて、初夏と初秋とのダブルスタンダード。ドチラも強烈に存在感があったりしますよね」

 「しまんな~。若かりし頃は脂ののったメタボな戻り鰹が好きやったけど、この頃は、スッキリとしたアスリート系の初鰹、一本やな。初鰹で初夏を感じる。いや~、よろしおまんな~」

 この国の四季、日本式の、その中心に鎮座するモノの一つに「旬」があるような気が、ズンズンとしてきた。

 「その旬が、果てしない欲望の追及、利便性の追及、科学の、技術の、進歩、などによって、感じられなくなりつつあるのかもしれませんね」

 「かもしれへんな~」

 アイデンティティを形成する大切なキモの部分ともいえるこの国の「四季」、日本式。は、年々、ジワジワと、感じられにくくなりつつある。やがて、この国のアイデンティティそのものが消えてなくなってしまうのではないか、という、そんな一抹(どころか、二抹、三抹)の不安を、私は、払拭できないまま、抱き続けている。(つづく)