ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.124

はしご酒(2軒目) その二十六

「クウキ ヲ ツカム」①

 ライブ感が好きだ。

 とはいえ、お家(ウチ)で、個人で、時を選ばず、自由気ままに、ヒッソリと、ノンビリと、ジットリと、みたいな、そんな感じで楽しむ、楽しめる快感もまた、もちろん否定はしない。実家には、イヤというほどレコードがあるし、巨大なスピーカーもドドンと鎮座していたりもする。

 なのだけれど、やはり、ライブ感がいい。ライブ感の醍醐味であるそのリアルな「空気感」がいいのである。

 たとえば、落語にしても、歌舞伎にしても、ジャズにしても、(Aくんが大好きであった)ハードロックにしても、お家から飛び出してこそのライブ感、空気感、で、あるわけだ。

 とくに、「能」。

 私、お気に入りの能楽であるだけに、より一層のスペッシャルな空間、空気感、を、求めたい。もちろん、能楽堂も(空模様を気にする必要もなく)、ソレはソレでイイのだけれど、やはり、神社などでの奉納能がもつ、ピーンと張り詰めたような静寂さ、冷たさ、とでも言えばいいのか、そんな、一種独特な空気感には、申し訳ないが、到底かなわない。

 Aくんは、そんなライブ感、空気感、こそが、授業が本来もつ醍醐味である、と宣っていた。そして、もっとも大切なコトは、その空気を掴(ツカ)むこと、だと。

 そう、空気を、掴む。

 対峙するわけでも、抗うわけでも、媚びるわけでも、振り回されるわけでもなく、自然に一体化しながら、自在に展開する、展開できる、みたいな、そんな、授業のイメージだろうか。

 と、自分なりに分析をしてはみたものの、正直、よくわからない。いつもの、あの、独特な言い回し、表現、ゆえ、私ごときでは、そう簡単には分析し切れない。分析し切れないけれど、Aくんのその思い、ナゼか、なんとなく、伝わってくるから不思議だ。

 そう、授業は、ライブ感。空気感。そして、その空気を、掴む。

 つまり、ナンでもカンでもデジタル化頼みでは、限界があるのではないか、というコトか。もちろん、こんなご時世だけに、デジタル化もまた致し方なしという側面も、あるにはあると思えなくもないけれど、でも、行き過ぎたデジタル化頼みは、学校の先生が、本来もっている、もたなければならない、「生(ナマ)」のチカラを、萎ませ、劣化させていくように思えて、ならないのである。

 空気を掴む。

 アナログな、ライブ感溢れるそんな空気感の中でこそ、育まれる、「生」のチカラが、Aくんが宣うところの「空気を掴む」、というコトなのだろう。そんな気がする。(つづく)