ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.83

水菓子 その壱

「ワクワク ガ ワクワク?」③

 私は、そんな「相互ワクワク」感を阻害する要因のかなり上位に、あの「教科書」があるのではないのか、と、密かに思っている。

 勉強が得意な子も、そうでない子も、興味関心のベクトルがアッチ向いてる子も、ソッチ向いてる子も、みんな一律に、限られた、決められた、時間の中で、学ぶ学習の「内容」も「量」も同じというこのプレッシャー、相当なものだと思われる。おもわず、教科書が配られたその日のうちに敗北宣言をしてしまいたくなってしまう、などというコトも、あるのではないだろうか。

 巷では、「みんなちがって、みんないい」などと言ってくれたりもしているけれど、現実は、みんなちがっていいわけもなく、ただひたすら厳しく残酷であったりする、ものだから、とくに子どもたちは、タイヘンなのである。

 Aくんが理想とする授業。

 ソレは、先生が考えに考え抜いたアレやコレやのアプローチで、学習内容の一つ一つをジックリと、生徒たちが自分のモノにしていく、という、そんな「〆切」感のない、ユッタリとしたものである、らしい。たしかに、Aくんのそうした思いを起点にして、授業を、教育を、考えることができたならば、クラス編成やら、授業形態やら、評価方法やら、をも含む公教育の全てにおいて、きっと、新たなる局面を切り開いていけるような気がする。

 しかし、「身を切る」などと宣いつつ、学校を、ドンドンと切り捨てている自治体もあると聞く。少子化だから廃校、では、本末転倒。無理やりでも少子化を逆手に取って、一クラスの生徒数をウンと減らし、あらゆる子どもたちの多様なニーズに応えられるいい意味での「小さな」学校を、きめ細やかな授業を、フレキシブルに展開していくことができたはずである。無償化もいいけれど、そうした金銭面だけではなく、公教育そのものを、分厚く、手厚く、する、その努力を、怠るべきではない。

 夢が膨らむ「ワクワクがワクワクを呼ぶワクワクワクワクワールド」、な、授業。  

 しかしながら、そうした現実に目を向けると、悲しいかな、膨らむはずであった夢もドンドンと萎(シボ)み、夢のまた夢で終わってしまいそうな気がしてならないのである。(つづく)