水菓子 その弐
「リフジン ト ドウリジン」
ボーダーレスやら、グローバルやら、といったモノが、世界中の理想と現実の狭間で、ガタガタと揺れている。
そう、揺れているのだ。
Aくんは、学校の先生のわりには(などという言い方をしてしまうと、学校の先生を小バカにしているように思われるかもしれないが、そんな意図は全くないので、ご安心いただきたい。とはいうものの、「学校の先生、大海を知らず」というイメージは、どうしても払拭できないままではある)、世界のアチラコチラを旅して回ってきた、と、いう。とはいっても、ゴージャスでもアドベンチャーでもない、ごく普通の貧乏旅行であったらしいが。
そう、あの頃、学校の先生たちには、夏季休業中の自宅研修権、すなわち、夏休みがあったのである。
その夏休みに、大きな意味があった、と、Aくん。その意味とは、いったい、ナンなのだろう。
右肩上がりの高度成長期。民間企業がヤタラと賃金アップ三昧であったあの時代、ナゼか、公立学校の先生の賃金は低迷し続けていた。と、Aくん。ソレでも一応、低空飛行ながらも安定はしていたわけで、そうした安定感は、学校の先生という職業を選択したピーポーたちのその気質にマッチしていた、と、いう。
もちろん、その安定感はこの今も健在で、そう簡単には職を失うことも路頭に迷うこともない。ならば、これほどまでに低調な、この国のこの今であるだけに、以前にも増して、公立学校の先生という職業を目指す若者が増えても良さそうなものなのに、そうならないのは、やはり、その安定感というヤツ以上に、夏休みの存在が大きい、というのが、Aくんの持論である。
そう、学校の先生には、夏休みが必要なのである。
たとえば、そのおかげで、クラブ活動「命」の先生はクラブに邁進できたし、心身ともに調子を崩していた先生は新学期に向けてリハビリに専念することができた、と、いう。夏休みがあったから頑張れた、という先生、結構、いたような気がする、と、Aくんは振り返る。そして、国境を越えて、グローバルに興味関心が満ち満ちていた先生は、堂々と胸を張って、あの伝説のガイドブック、「地球の歩き方」を片手に、切り詰めて切り詰めて世界中を飛び回ったわけだ。
その「地球の歩き方」を片手に、の、一人が、Aくん。そうした若き日の体験は、自分にとって貴重な財産になっている、と、自負する。
そんなAくんだが、彼は、この地球に生きる人間を、もういい加減、そろそろ、国家単位で区分するのはやめたほうがいいのでは、と、以前から提案している。種族とか民族とかといったアイデンティティは極めて大切なモノだと思っているが、そんなアイデンティティなどとはほとんど関係なく、ただひたすら政治的な臭いにまみれまくって引かれた国境という「線」に、区分され、場合によっては啀(イガ)み合い、争い合い、殺し合う、などというコトに、どうしても意味を見出だせないし、納得もできない、と。そして、トドメに、そもそも「〇〇人」なんてものは、元来、2種類しかない、と、(いつもながらの極端ぶりではあるけれど)言い切るのである。
そう、2種類しかない。
その2種類、とは、ドコまでも理不尽な「リフジン(理不人)」と、ナニがなんでも道理に生きる「ドウリジン(道理人)」である、と、いう。
そう、理不人、と、道理人。
さすがに、かなり無理がある強引な区分ではあるが、世界中に不条理で理不尽な風が吹きまくる、そんなこの今であるだけに、それはそれで的(マト)を得ているのではないか、と、ナンとなく思えてもくる。
仮に、Aくんが宣うようにその2種類しかないとしよう。
眼前の、その、理不人と道理人の其々に繋がる2本の道のその前で、背筋を伸ばしてスクッと立ち、まずは思いっ切り深呼吸をし、落ち着いて、ジックリと考えてみれば、自ずと、我々の進むべき道がドチラなのか、は・・・。(つづく)