食事(ご飯) その三
「カイシャク シャクニサワル!」
「解釈」問題。
とくに、「憲法9条」に触れる際に、必ずと言っていいほど脚光を浴びてきたこの解釈問題だが、今では、もう、ほとんどの法律が、この解釈問題の餌食になりがちだ。
そう、解釈。コイツが、なかなかの曲者(クセモノ)なのである。
Aくんによると、この「解釈」、グレコローマンスタイルではなく、臨機応変なフリースタイルである、という。申し訳ないが、ちょっと、イミがわからない。
まさに、ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールド。その、臨機応変なフリースタイルとは、そして、フリースタイルでもナンの問題もない「解釈」とは、いったい、ナンなのだろう。
そもそも、そもそもだ。「活字」ごときで、ガチッと、内容やら枠組みやらを完璧に、堅牢に、「コレコレはコウだ」と確定する、などということが可能なのだろうか。
たとえば「活字」で表現されたモノ。
俳句。
短歌。
詩。
・・・。
その中身は、読み手に委ねられている、まさに小宇宙。そんな小宇宙の申し子みたいな「活字」に、ガチッとしたモノを求めるコト自体、無理があるような気がする。
となると、コレもまた人間側の問題か。
人間側の都合によってその解釈が、フリースタイルにコロコロコロコロと変わる危険性が、「解釈」がもつ宿命であるとするなら、いくら「活字」をアレコレいらったり、さわったりしたところで、どうせ、誰かにとって都合のいいようにしか解釈されない。だとしたら、もう、ドウとでも解釈可能な小宇宙のままでいいか~、などと、諦(アキラ)め感満載で思っていたりしていると、俄(ニワカ)に、さすがに、もう、そんな自分都合の異次元解釈では押し切れないとでも考えたのか、「え~い、ならばいっそのこと、その、都合のいい解釈通りの活字に変えてしまえ~」みたいな動きが、ココにきて一気に活発化しつつあるようだ。
おそらく、ナンとなくウヤムヤにしていたダークな本音を、今こそがチャンスと、さらけ出し始めたということなのだろう。
そんな、権力者たちのダークな本音が、思惑が、絡みに絡み、ナニからナニまで怪しさまみれの「解釈」問題。考えれば考えるほど、マジで「癪(シャク)」にさわる。
(つづく)