食事(ご飯) その弐
「モンスターヒョーカー」
あの頃、「結果」が全てじゃないんだ、という時代だった。
そう、結果が全てじゃ、ない。
「結果」よりも大切なモノ、ソレは、ソコに至るまでの「過程」である、と、私のクラス担任も(なかなか結果を出せない私たちに)常に言ってくれていた。少なくとも私は、その担任のそのコトバに、かなり救われていた。
結果にとらわれず、ベストを尽くそう。ベストを尽くすその姿勢こそが美しいのだ。そして、そうした過程の中で、人は人として成長していくのだ!
そんな感じの内容であったと記憶する。熱い、イイ先生だった。
そう、そうなのである。「結果」よりも「過程」。だから、勉強が苦手な私とクラスメートたちは、それほど落ち込むこともなく、前向きに、ソレなりに楽しく学校生活を送ることができていたのだ。
そうなのである。世の中は、まだギリギリ、そんな感じであった。ような気がする。
でも、ひょっとすると、ココロの中では「そりゃ~やっぱり結果でしょ!」、などと、思っている人もにいたのかもしれない。いや、いたに違いない。けれど、「そんな非道徳的なコトを軽々しく口に出してはいけないんだ!」、と、自戒する人が大半であった。と、少なくとも私は思っている。
ソレが教育。ソレこそが教育のあるべき姿。では、ないか。
ことさら結果を、結果を出すコトを、目指したような教育が教育の本来の姿であるとは、到底思えない。が、しかし・・・。
ひょっとすると、Aくんの様々な憤りの中心に、この、「結果」の台頭があるのかもしれない。
そう、結果、の、台頭。
「努力」などという目に見えない抽象的なモノで彩(イロド)られた「過程」などとは、この際キレイサッパリ決別して、とにかく、「結果礼賛!」。「結果が全て!」。と、いう、風潮が、そこかしこで芽吹き始めているように思えてならないのである。
ちなみにAくんは、典型的な本格派の授業至上主義者だが、彼は、そんな眼前の結果のために、あるいは、自分に対する評価のために、アレやコレやと授業のコトを考えているわけではない、はずだ。
そうした結果にのみスポットを当て、「評価」に命を懸ける「モンスターヒョーカー」たちが、ナンだかエラそうにのさばり出したコトに、Aくんは、悶々とした憤りを覚えているのだろう。(つづく)