ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.71

食事(ご飯) その弐

 「モンスターヒョーカー」

 あの頃、「結果」が全てじゃないんだ、という時代だった。

 そう、結果が全てじゃ、ない。

 「結果」よりも大切なモノ、ソレは、ソコに至るまでの「過程」である、と、私のクラス担任も(なかなか結果を出せない私たちに)常に言ってくれていた。少なくとも私は、その担任のそのコトバに、かなり救われていた。

 結果にとらわれず、ベストを尽くそう。ベストを尽くすその姿勢こそが美しいのだ。そして、そうした過程の中で、人は人として成長していくのだ!

 そんな感じの内容であったと記憶する。熱い、イイ先生だった。

 そう、そうなのである。「結果」よりも「過程」。だから、勉強が苦手な私とクラスメートたちは、それほど落ち込むこともなく、前向きに、ソレなりに楽しく学校生活を送ることができていたのだ。

 そうなのである。世の中は、まだギリギリ、そんな感じであった。ような気がする。

 でも、ひょっとすると、ココロの中では「そりゃ~やっぱり結果でしょ!」、などと、思っている人もにいたのかもしれない。いや、いたに違いない。けれど、「そんな非道徳的なコトを軽々しく口に出してはいけないんだ!」、と、自戒する人が大半であった。と、少なくとも私は思っている。

 ソレが教育。ソレこそが教育のあるべき姿。では、ないか。

 ことさら結果を、結果を出すコトを、目指したような教育が教育の本来の姿であるとは、到底思えない。が、しかし・・・。

 ひょっとすると、Aくんの様々な憤りの中心に、この、「結果」の台頭があるのかもしれない。

 そう、結果、の、台頭。

 「努力」などという目に見えない抽象的なモノで彩(イロド)られた「過程」などとは、この際キレイサッパリ決別して、とにかく、「結果礼賛!」。「結果が全て!」。と、いう、風潮が、そこかしこで芽吹き始めているように思えてならないのである。

 ちなみにAくんは、典型的な本格派の授業至上主義者だが、彼は、そんな眼前の結果のために、あるいは、自分に対する評価のために、アレやコレやと授業のコトを考えているわけではない、はずだ。

 そうした結果にのみスポットを当て、「評価」に命を懸ける「モンスターヒョーカー」たちが、ナンだかエラそうにのさばり出したコトに、Aくんは、悶々とした憤りを覚えているのだろう。(つづく)