止め肴 その十二
「センリャクテキギライ」
「戦略的でない」とか「戦略がなさすぎる」とか、と、ヤタラと「戦略、戦略」と軽々しく宣う人たちがいるけれど、私はあまり好まない。
そう、戦略的嫌い。
戦国時代ならまだしも、この現代社会において、なぜ、「戦略的」とか「戦略」とか、といったモノを、ナンの疑問ももつことなく、丸ごと肯定的に受け入れることができるのか、一度、お聞きしてみたいぐらいである。
ただ、ひょっとすると、戦略的好きな人たちにとっては、現代社会もまた、まだまだ「戦国時代」の真っ只なのだ、ということなのかもしれない。という思い、も、私の中にないワケじゃない。
では、ナゼ、好まないのか。
私は、「戦略的」は「してやったり」だと思っている。
そう、してやったり。
してやったり、には、必ず、「してやられた」が、へばり付く。当然のごとく「してやったり」側は最高の気分であろうけれど、もう一方の「してやられた」側は、どうだろう。たいてい、ソチラ側には、容赦なく、ナンとも形容しがたい不愉快な臭いがムンムンと立ち込めるのである。
Aくんは、「勝敗」というモノを、この世の必然と考えるのもまた、残念ながら致し方のないことだ、と、消極的ながらも、宣う。しかしながら、敗者への「愛」あってこその勝者でなければならない、と補足する。
そう、敗者への愛。おそらく、ソレは、それほど容易いコトではないだろう。
なぜなら、Aくんが宣うところのその「愛」というヤツは、「戦略的」とか「戦略」といったモノとは真逆なところに鎮座しているモノ、に、違いないからである。
だから、だからこそ、むしろ、「戦略的でない誇り」、「戦略がなさすぎる潔さ」、そんな美学、美意識もまた、現代社会を生きる我々にとって、必要なモノなのではないだろうか。と、どうしても、どうしても思ってしまうのである。
そうしたコトのアレやコレやを思いながら、Aくんにトクトクトクっと注いもらった山廃純米のぬる燗を、一滴も溢さないよう慎重に、ユルリと口元に運んだ、そんな、あの夜の、懐かしの記憶なのである。(つづく)