ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.62

箸休め

「イイナマコ イイマナコ イキテルアカシ」①

 「いいナマコが入ってるけど、食べる?」、と、居酒屋の親父さん。

 「ナマコには目がないんだよね~」、と、嬉しそうに即注文するAくん。「ナマコには目がないのか?」、と、呟く私に、「あるだろう、だからマナコって言うんじゃないの」、と、かなり投げやりに、いい加減に、突っ込んでくるAくん。「ナマコはナマで食するからナマコなんだから、そもそもナマコとマナコとはなんの関係もない」、と、応戦する私。

 Aくんは、いい加減なときは本当にいい加減であるが、Aくんがいい加減なときは、私もかなりいい加減になる。

 ということで、私が安心していい加減になっていると、突然、Aくんが、「いいナマコもいいマナコも生きている証し」、などと、さらにワケのわからないことを言い出したものだからタイヘンだ。

 以前からAくんは、「目ヂカラ」の大切さを力説している。

 人は、その喜怒哀楽を目に凝縮できる、ソレは、大いなる「パワー」を生む、みたいな、そんな感じで語りに語る。

 とくに学校の先生は、その「目」がモノを言う、らしい。たしかに私が大好きだった恩師たちは、目がいつもキラキラランランとしていた印象がある。目をキラキラランランと輝かせながらイロイロな話をしてくれた。もちろん、叱られたときの目ヂカラぐあいも、ハンパなものではなかったのだけれど。

 そんなAくんの、「目ヂカラ」論やらナンやらを聞いているうちに、数年前に亡くなった父親のことを、なんとなく思い出した。そういえば、イヨイヨという、まさにそのとき、父親の目から、ス~っと「命」のようなものが抜けていったような気がしたのである。

 突然の、Aくん得意の転調トークではあったけれど、そんなこんなをアレやコレやと思い起こしているうちに、たしかに「いいナマコもいいマナコも生きている証し」なのかも、という思いがジワジワとしてくる。(つづく)