止め肴 その六
「ハイケイ ハイケイサマ オゲンキデスカ」
拝啓、背景様。お元気ですか。
どうせ私は背景だから、などと、イジケたりしてはいませんか?
信じられないコトが起こってしまった。
トンでもないコトを起こしてしまった。
悪夢のようなコトになってしまった。
ナゼ、そんなコトが起こってしまったのか?
ナゼ、そんなコトを起こしてしまったのか?
ナゼ、そんなコトになってしまったのか?
どうしても派手で目立つものだから、その結果ばかりが気になって、そうした「コト、コト、コト」にばかり、目が奪われてしまいがちだ。しかし、本来は、そんな時だからこそ、その背後で、人知れず鎮座する、原因、「ナゼ、ナゼ、ナゼ」に、目を向けなければならないはずである。
そう、背後で、人知れず鎮座する、ナゼ、ナゼ、ナゼ、に。
大昔、まだ学生の頃だったか、ある演劇を見た。
北村想が率いる劇団、「彗星’86」による『十一人の少年』。そして、それは、私が見てきた演劇たちの中でも、とくに、パッションとエナジーに満ち溢れた、途方もなくブラボ~な、屈指の舞台であったのである。はずなのに、時の流れとは実に残酷で、その記憶は、ほとんど、忘却の彼方に消え入りそうだ。ただ、劇中の、あるセリフだけは、未だに忘れられないでいる。
ソレが、コレ。
「見えるその目に見えないそれは、見えないその目に見えていた」
視覚を失った少女。しかし、彼女の心の目には、「見る」というコトが当たり前すぎて、逆に「見る」というコトを軽んじてしまいつつある多くのピーポーたちには、もう、すでに、見えなくなってしまったモノ、コト、が、見えていたのである。その、象徴的なセリフがコレ。だから、忘れられないのだろう。
結局のところ、私たちは、見えていると思い込んでいるだけで、実は、ナニも見えていないのかもしれない。いや、ハナから見ようとなどしていないのかもしれない。
つまり、どうしても、どうしても、カラフルなライトに明るく照らされた華やかなあの舞台にばかりに目がいってしまう、というわけだ。
そう、捨て置けない大切なモノ、コト、は、むしろ、その「背景」に、その背景という真っ暗な「闇」に、こそ、人知れず鎮座しているのだ。
耳を澄ませば、きっと、闇の中から「早く私を見つけて!」という真実の声が、きっと聞こえてくるに違いない。
きっと、きっと、聞こえてくる、真実の声が。
マジで素晴らしかったその劇の余韻に浸りつつ、そんな、とりとめのないアレやコレやをボンヤリと思ったり考えたりしながら、月明かりの夜道を、一人で、トボトボと、歩いて帰ったことを懐かしく思い出す。
拝啓、背景様。お元気ですか。
全くもってイジケたりなどしなくていいのです。あなたの中に、こそ、「ナゼ」を解き明かす真実が、きっと、ある、はず。(つづく)