ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1062

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と九十三

「ヒトハ ナゼ ウソヲツクノダロウ」

 「もちろん僕も含めてだが、人は、ナゼ、嘘をつくのだろう、な」

 人は、ナゼ、嘘をつくのか、か~。

 Aくん得意の唐突感で、そう、問われたりすると、たしかに、ズンズンとナゾめいてはくる。

 「嘘をついてでも自分を守りたい、ということ、か」

 「嘘をついてしか自分を守れない、と、したら、よほどの人間以外は、自分を守るために嘘をついてしまうかもしれませんね」

 「じゃ、嘘をついてでも自分以外の誰かを守りたい、ってのは、どうだ」

 「守りたい相手と自分との関係性によると思います」

 「ほ~。つまり、守りたくなんてないのだけれど守ることを強いられているような、そんな関係性の中でつく嘘と、あくまでも対等な関係性の中でつく嘘とでは、全くもって違う、ということだな」

 「ドチラも嘘であることに変わりはないわけですから、そんなもの、所詮、目クソ鼻クソ、と、言ってしまえばソレまでですが、でも、やっぱり、違うと思います」

 「罪なき嘘、とまでは言わないけれど、細やかなる罪の嘘、ってのも、ある、かもしれない、か」

 「あると思います。愛のために、正義のために、真っ当なモノのために、つかなければならない嘘。あるでしょう、あるはずです」

 「となると、目クソ鼻クソとはいえ、同じ嘘であってもだ、誰かを捨てゴマにしてでも自分だけを守ろうとする嘘、ってのが、最も罪深い嘘、というコトになる、か」

 「というコトに、なるかもしれません」

 私なりの「人はナゼ嘘をつくのか」理論を、珍しくエラそうに語ってしまったが、残念ながらそのナゾは、語れば語るほど更に一層ナゾめいてくる。

 人は、ナゼ、嘘をつくのだろう。

 ナンのために、嘘をつかなければならないのだろう。

 どうせ、いつか、バレてしまうに違いないのに。

 そんな疑問ばかりが膨らんでいく中で、ナゼか、ふと、あるイタリア映画のことを思い出す。

 その映画とは、あの、ロベルト・ベニーニ強制収容所を舞台にして描いた渾身の傑作、『ライフ・イズ・ビューティフル』。

 そうだ、そうだった。

 強制収容所に連行されてしまった家族のその父親が、まだ幼い愛息子に嘘をつく。その嘘が、あまりにも、あまりにも切なくて、辛くて、そして、美しかったのである。(つづく)