ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.53

箸休め

「サヨナラ ドッキンチャン モンダイ」

 小学生の頃、Aくんは、とにかく、日々、好奇心と驚きとでグチャグチャのお祭り騒ぎで、尽きることのない好奇心と枯れることのない驚きとの二重らせん構造パラダイスであった、という。私も、秘密基地づくりやら蛇退治やら金鉱探しやらで、忙しい日々を送っていたので、その気持ちもその感じも、わかるような気は、する。

 ところが、そうした「好奇心」やら「驚き」やらといったモノが、ジワジワと消滅の一途をたどり始めたものだからタイヘンだ、とAくん。そんなコトになるなんて、あの頃の自分に想像などつくはずもなく、おかげさまで、そのあたりの「やら&やら」は、今ではスッカリ絶滅危惧種だ、と、嘆くことしきり。

 最初のうちは、この世の中の方が、そういうサビシイ世の中に成り果てたのだ、と、全て自分以外のモノのせいにしていた、とAくん。しかし、悲しいかな、そうではなかった。全ては自分自身の問題であり、自分の中の大切なナニかが確実に枯渇し始めているだけのことであったのだ、と、潔く修正してみせる。

 私も、もう、あの頃の、ナンでもカンでもワクワク、ドキドキしていた自分に戻ることなどないだろう、と、半ば諦めかけてしまっているだけに、その気持ちもその感じもまた、イヤというほど、よくわかる。

 少し前に、あの「ドキンちゃん」の声を担当されていた鶴ひろみさんが、(なんと) 57歳の若さで急逝された。鶴ひろみさんと言えばドキンちゃんドキンちゃんと言えば鶴ひろみさん、という感じであっただけに、私の中では、ドキンちゃんも彼女と一緒に仲良く天国へ、という思いが、ドキンちゃんには申し訳ないけれど、ある。

 まさに、そう、「サヨナラ、ドキンちゃん」。

 そして、そんな「サヨナラ、ドキンちゃん」と同じように、ドキドキドッキンと驚く、驚きまくる、という眩しいばかりの感性が、自分の中からドンドンとサヨナラしていくのである。

 そう、「サヨナラ、ドキンちゃん」ならぬ、「サヨナラ、ドッキンちゃん」。

 Aくんにとっても、私にとっても、ナニやら妙に、妙に切なくなってしまう、そんな、遥か遠い昔のキラキラとしていた自分との、サヨナラ、ドッキンちゃんなのである。(つづく)