ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.22

鉢魚 その四

「イッサイセツメイシマセンセイ」

 いつの頃からだろう。学校の先生が説明をしなくなった、と、嘆いていたAくん。

 ナゼ、そんなコトになってしまったのか。

 とくにその悲しき傾向は、シモジモじゃないエライ「先生」たちに顕著に見られる、とのこと。「説明する」ことが先生の仕事だと信じてやまないAくんにとって、それは、業界七不思議(もっとあるのだろうけれど)のうちの一つであるようだ。

 その、「説明する」、の、代わりに、社会的地位を獲得したモノがある。ソレが、「決まったこと、決まっていること、ですので、ご理解をお願いしたい」、で、ある、という。おそらく、そうお願いしている本人も、まず、理解なんてしていない。この際、理解なんてどうでもいいのだ。

 そう、理解なんてどうでもいい。

 たとえば、ナニかが変わることによって引き起こされるであろうリスク、の、その懇切丁寧な説明。もちろん、とりあえず、ヤタラと「丁寧な説明を」、と、繰り返す政治関係者もいたりはするけれど、そんなモノ、当然のごとく、口先だけ。微塵も大切なコトだとは思っていない。どうでもいいのである。

 ようするに、相手の気持ちに寄り添い、心を込めて、時間もかけて、ジックリと説明するなんてコトよりも、もっと、もっと大事なコトがある、ということ。つまり、いかにしてその場を上手く乗り切るか、乗り切れるか、こそが大事なのであって、その手腕こそが評価の対象となる、というわけだ。

 そう、評価。

 悲しいかな、一切説明しない先生、「イッサイセツメイシマセンセイ」は、「評価」の二文字に心底弱く、いつだってビビりまっくっている、らしい。(つづく)