鉢魚 その五
「ドノツラサゲテ コセイノバス?」
「個性を伸ばす」とか「国際感覚を身につけて世界で活躍できる人間を育成する」とか、と、ヤタラと威勢よく宣ってはくれるけれど、その、「ノバス」やら「イクセイスル」やら、に、Aくんは懐疑的だ。シモジモじゃないエライ人たちが考える「個性」とか「国際感覚」といったモノとは、いったい、どういうモノなのか、が、全くもって見えてこない、というのだ。
個性、国際感覚。
ちなみに、私が考える「個性」とは、「自己表現の自由」。
もちろんソコには、人としてのモラルの問題はあろうかと思うが、それはそれとして、やはり、「自己表現の自由」なくして「個性」を語ることなどできない、と、確信している。となると、たとえば、道徳までマニュアル化してしまおう、理想的な家族のカタチまで固定化してしまおう、という、ナンでもカンでもワンカラー化の風潮のこの時代、本気で個性やら国際感覚やらを考えておられるとは、Aくんのみならず、この私も、到底、思えないのである。
まさに、「どの面(ツラ)下げて個性、伸ばす?」、で、ある。
たとえば、あの、国民栄誉賞。
その受賞者一つとってみても、色味が単一というか、価値観の画一化というか、その視野の狭さを感じざるを得ない。
この国を含むこの星には、夜空の満点の星の数ほどの様々な「色味」が、「価値」、「価値観」が、混在しており、その一つ一つが、個性的に、感動的に、キラキラと光輝く可能性に満ち溢れている、というコトを、私たちは、けっして忘れるべきではない。(つづく)