ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1193

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と二十四

「ビバ! モノイウ イタイアン」

 「40年近く、あの業界に籍を置いて、その経験からソレなりに自信をもって言えるコト、ソレは、まだまだこの国は『沈黙は美徳なり』、だってコト」、とAくん。

 沈黙は、美徳、か~。

 「あのキング牧師が、今、この国に生きておられたら、きっと、モノ申されたでしょうね」、と私。

 「あ~、モノ申されただろうな、間違いなく」

 「あの、キング牧師のトビッキリの名言。たしか、『沈黙は時として裏切りになる場合がある』、でしたよね」

 「そうそう、ソレソレ。メチャクチャ好きな名言なんだよな~。と、いうか、『沈黙は美徳なり』、に、丸め込まれそうになった時のカンフル剤と言った方がいいかな」

 カンフル剤、か~。

 たしかに、カンフル剤が必要になるぐらい丸め込まれがちだ。「モノ言う」にへばり付いた「痛い人」という負のイメージに、どうしても、たじろぎ、尻込みしてしまうのだ。

 「モノ言う人は協調性も社会性もない単なるワガママなヤツ、痛いヤツ、という風潮が、この国にはあるように思えてならないのですが」

 「なんといっても『沈黙は美徳なり』立国だからな。ソレが邪論であろうが正論であろうが、とにかく、モノ言うヤツは痛い、と、いうことになるんだろうな」

 邪論ならば致し方ない気もするが、正論であったとしても、十把一絡(ジッパヒトカラ)げに「モノ言うヤツは痛いヤツ」という、いかんともし難い風潮、圧力。なかなかの厄介さだ。おそらく、Aくんも、職場で、「痛い人」扱いされてきたのだろう。そんな気がする。 

 ならば、もう、「痛い人」で大いに結構。「痛い人」のナニが悪い。むしろ、「痛い人」ぐらいで丁度いい。と、いうか、場合によっては「痛い人」でなければならない。と、ズンズンと思えてくる。

 「ワインも料理もサッカーも、もちろん、キモチが良すぎるぐらいムリ~ノアヴェント(mulino a vento)なピーポーたちも、大好きな、大のイタリア贔屓の私ゆえ、そんな全てのイタリアンに敬意を表しつつ、愛すべき『モノ言う痛い人』を、イタリアン、ならぬ、『イタイアン』と、この際、呼ばせてもらおうと思います」

 「イタイアン?。イタイアン、イタイアンね~。いいよ、ソレ、実にいい」

 お褒めいただき、ちょっと嬉しくなる。

 ヤヤもすると、ズルズルと、丸め込まれてしまいがちな私だけれど、コレからは、弱い心に鞭(ムチ)打って、できる限り『モノ言うイタイアン』で突き進むぞ、と、あらためて、あらためて己に、己の魂に、言い聞かせる。

 ビバ(Viva )!、モノ言うイタイアン。

(つづく)