ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.695

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と三十六

「ノドモトスギレバ~ ナ レバー ト スパイス」③

 「マッタリとトロける甘い香り、キリリとキレる爽やかな香り、ヒリヒリとシビレる突き刺す香り、などなどの香りと共に、心地よい刺激がベッチャリと粘膜にへばり付く、というこの感じが、ヤヤもすると、魔性、ということに、相成る、わけだ」

 ん~、相成るわけだ、と言われても、しかしながらソレこそが、スパイスの醍醐味というヤツではないのか、と、どうしても思ってしまう。それを、あえて「魔性」と呼ぶ、その真意とは、一体・・・、申し訳ないが、さらにワケがわからなくなる。

 「魔性の力が、豚レバーの素材そのものを見えにくくすることもある、ということだ」

 ん?

 「もち味を、良さを、うまい具合に引き出すのではなく、その豚レバーが抱えている致命的の問題点を、スパイスの魔性の力で包み隠す」

 んん?

 「そして、包み隠された豚レバーもまた、それなりに、味わうことはできたわけだし、それほど悪くもないし、食べたあとでウダウダと悪口を言うのもなんだしな~、みたいなそんな感じで、ノド元過ぎればナンちゃらカンちゃら、みたいなことに、なるのだろうな、きっと」

 んんん・・・。

 引き出す、と、包み隠す。似ているようでいて、たしかに違う。ようやくナゾめいていたその真意が、おぼろげながらも見えてきたような気はする。

 このことは、たとえば、多くの問題点を抱えた政策が、目先の利益やら、表向きの華やかさやらで煙に巻かれて、ま、どうにかやれたわけだから、結果オーライでいいじゃないか、振り返りとか検証とかなんて、この際、いらないでしょ、みたいなそんなコトになることと、とても似通っているように思えてならない。

 Aくんの、そんな熱き「ノド元過ぎれば~、な、レバーとスパイス」理論。結局、トドのつまりは、ようするに、スパイスもまた使い方次第、使う人の「心」次第、だということなのか。(つづく)