ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.165

はしご酒(2軒目) その六十七

「フレキシブル ダイオウ」

 臨機応変に、フレキシブルに、対応できる、その能力が図抜けている達人を、「フレキシブル大王」とAくんは呼んでいた。

 しかしながら、この場合の「フレキシブル」、単なる小手先の巧みさを意味するものではない、らしい。フレキシブルな対応と、巧みなだけの立ち振る舞い、この両者の間にある隔たりは相当なもの、だと言う。

 その隔たりの要因とはナニか、ナニが、ドコが、違うのか。

 Aくんによれば、ソコに「愛」があるか、というその一点に尽きる、とのコトだった。

 価値観が多様化し、個々の問題も複雑に、深刻に、しかも、なかなか外から見えづらい。さらには、思ったとおりなんていかないことだらけで、イレギュラーもあり放題だ。そんなこんなのこの今、の、教育現場において、フレキシブル大王は大いなるチカラを発揮する、はずである。だがしかし、ソコに「愛」がなければ、なにも動かない、なにも変わらない、なにも生まれない、というのがAくんの熱き持論である。

 あのマニュアリストたちとは対極的とも言える愛のフレキシブル大王、(私が目指しても仕方がないけれど)目指すべき教師像の一つ、だと、たしかに思う。(つづく)