ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.408

はしご酒(4軒目) その百と五十九

「ディスカッションベタシンドローム

 たとえば、あのOくんが、あるトンでもない行動をとった、としよう。

 それをZさんが、「多くの人の心を傷つけたわ、とるべき行動ではなかった」、と、断罪する、としよう。

 するとZ’さんが、「君がアレコレ言うのは、おかしい」、と、戒める、としよう。

 さらにAくんも、「じゃ、Zさんの、あのときのあれは、いかがなものか」、と、追い討ちをかける、としよう。

 おまけに私までもが、「Zさんは影響力があるから、発言には気をつけないと。できれば、静観することが望ましい」、などと、知ったふうな口を利く、としよう。

 おそらく、すでに、Zさん以外の三人の頭の中には、Oくんのとったトンでもない行動のことなど、微塵も残ってはいないような気がする。

 そもそも、議論の中心は、その行動そのものであったはずであり、その行動に対するクールな分析こそが期待されるのであって、どこをどう間違えたとしても、Zさんが議論の中心になど、なりようがないのである。

 では、なぜ、このようなことが起こってしまうのか。

 それこそが、ひょっとしたら、この国の特質なのかもしれない。

 小さな島国であるこの国で、古(イニシエ)より美徳とされてきた「沈黙」のその裏側で、反動のようにして誕生したこの風土病のようなもの、それを私は、「ディスカッションベタシンドローム」と呼んでいる。

 この、なんともかんともな議論ベタを、どうにかして克服せしめないことには、様々な場面において、いつまでも、どこまでも、悲しいぐらい的外れのままであるような、そんな気がしてならないのである。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.407

はしご酒(4軒目) その百と五十八

「ユカイハン ト カネノモウジャ ト ソノナカマタチ」④

 「どうだい、ナニか見えてきたかい?」、とAくん。

 「はい。悪魔たちのミーティングを、コッソリと盗み聞きさせてもらいましたから」

 「そいつはいいね。でも、君のところのその悪魔は、それほど悪魔悪魔とはしていないんだろ?」

 「ならいいのですが、ところがどっこい、結構、性根が腐っているんですよね~。大家として、ホントに情けない」

 「ほ~、大家ね~、・・・ま、大家といえば親も同然、店子(タナコ)といえば子も同然。悪魔とはいえ、大家として、親として、複雑な思いなんだろうな~」

 慰めてくれているのだろうけれど、親子関係とまでは、さすがに思ってはおらず、すでに、突き放す覚悟はできている。

 「ようするに、愉快犯、そして、金と権力の亡者(モウジャ)ゆえの悪魔の所業、だということです」、と、キッパリと私。

 「なるほど、そのためには手段を選ばない、デマでもナンでも流しまくる」

 「そうです」、と、さらにキッパリと私。

 「僕も同感だ。でも、そうした主犯格が垂れ流すデマに、なんとなく、とか、あるいは、様々な利害にまみれにまみれ、とか、といった、いい加減なことを宣いながら乗っかってくる、悪魔の一歩手前のような共犯者たちも数多くいる、ということもまた、決して忘れるわけにはいかない。言ってみれば、愉快犯と金の亡者とその仲間たち、って感じかな」

 その仲間たちか~・・・、B級映画のタイトルみたいだけれど、いま一度、世の中のそこかしこに目を向けてみれば、たしかに、忘れるわけにはいかなそうである。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.406

はしご酒(4軒目) その百と五十七

「ユカイハン ト カネノモウジャ ト ソノナカマタチ」③

 ようやく集まった悪魔たち、しばらくの間は寡黙であったのだけれど、にわかに、ナニやらボソボソと呟き出す。そのことに気付いた私は、反射的に聞き耳をたてる。

 「弱りきったヤツらがドップリと困った顔をする、たまらんよな~、ブヒヒヒヒ」

 「ちょっと冷静に考えれりゃ、マジかデマかぐらいのことは、わかりそうなものなのに」

 「弱り目に祟(タタ)り目」

 「そうそうそうそう、冷静に考えられないほど弱っているからこそ祟りがいがある、ってもんだな、笑えるね~、デヘヘヘヘ」

 我が家の悪魔たちとはいえ、その呟きの、あまりの悪魔悪魔さに、おもわず耳を塞ぎたくもなったのだけれど、それを上回る好奇心が、さらに私の耳の精度を上げたものだから、自分のことながら、少々驚く。

 「ムカつくヤツに正義の鉄槌(テッツイ)を下す!」

 「あるあるあるある、正義のデマね。悪魔的には邪道なんだろうけど、悪魔にも正義はあるんだってとこは、一応、見せておきたいよな~、ムフフフフ」

 なんて手前勝手な理屈を、バカみたいに繰り広げているんだろう、コイツらは、と、唖然としたそのついでに、ココは注意の一つでもしておかねば、などと思ったりもするのだけれど、またまた好奇心が、そんな私を、「ま~ま~ま~ま~」と宥(ナダ)めすかす。

 「悪魔的な王道としては、都合の悪いヤツを潰すために、都合のいいデマを流しまくる、言うなれば、悪魔の鉄槌を下す!、これだな、これ」

 「そのことによって、より大きな金(カネ)やら権力やらを手に入れることができれば、願ったり叶ったり、申し分ない、ガハハハハ」

 そんなナンともカンともな呟きをリアルに耳にするにつけ、悪魔たちの大家(オオヤ)として、世間に顔向けができない、という後ろめたさも、それなりにあるにはあるのだけれど、もうコイツらも立派(でもないか)な大人なんだから、犯した罪は自ら償わないと、などと、適当な言い訳で逃げ切ろうとする私。

 それにしても、呆れ果てるほど、トコトン性根(ショウネ)が腐りきった悪魔たちだな、と、あらためて思ったりしているうちに、なんだか、身も心も・・・重たくなってくる。(つづく)

 

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.405

はしご酒(4軒目) その百と五十六

「ユカイハン ト カネノモウジャ ト ソノナカマタチ」②

 「なぜ、そんなものが流されなきゃならないのですか、なにかメリットでもあるんですか、それとも誰かからの依頼かナンかですか」、と、思いつくまま、立て続けに問うてみる。

 するとAくん、ほんの少しだけ意地の悪そうな顔をチラリと見せつつ、「おそらく、チラホラ程度の数しか棲みついてはいないだろうけれど、君の心の中の闇に、辛うじて生息する悪魔たちを、どうにかして掻き集めてみれば、その問いの答えが見えてくるかもしれないぞ」、と、返してくる。

 私の中に闇なんてないし、悪魔だっているわけないじゃないですか、と、その返しに、速効で返し返(ガエ)したいところだけれど、もちろん、そうは問屋が卸さない。残念ながら、闇もあれば悪魔もいる。

 極悪非道とまではいかないであろう、そんな私の中の二線級どまりの悪魔たちに、どうにかこうにか集合していただいて、そうした悪魔たちの立場で、視点で、ココはジックリと考えてみようと目論(モクロ)む。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.404

はしご酒(4軒目) その百と五十五

「ユカイハン ト カネノモウジャ ト ソノナカマタチ」①

 デマゴーグ(demagogue )という言葉の意味を、ご存知か、とAくん。

 いつの世も、民衆の心は脆弱(ゼイジャク)で揺れ動きやすい、というその泣きどころを、見事なまでにグサリと突いてくる、悪魔の所業の一つである、らしい。

 「デマゴーグって、デマのことですよね。デマを飛ばす、デマを流す」、と、とりあえず、その初歩的なところを確認する私。

 「そう、デマを流す、それそれ、それだ」

 いま流行りの、ネットなどで無尽蔵に垂れ流されるフェイクニュースとは、全く別種のものなのか、それとも、時流に乗ったネーミングというだけで、その中身はほぼ同じ、ということなのか、そのあたりのことはよくわからない。

 そして、もう一つ、私の心の中でプッと芽生えた疑問がある。

 なぜ、デマは飛ばされるのか、流されるのか。まさに、ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールド、なのである。(つづく)

 

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.403

はしご酒(4軒目) その百と五十四

「ヒカリカガヤク パワフルマン パワフルウーマン パワフルヒューマン!」②

 そんな私のプチ反旗に、「そりゃそうだな。せっかく言い換えるのだから、どうせなら前向きに、という君の指摘は、全くもってその通り、的を得ている」、と、拍子抜けするほど早々に、納得の表情を見せるAくん。

 少しぐらいは「そうじゃないだろ」と、抗(アラガ)ってみてくれても良かったのに、などと思いつつ、その、「言い換えるとするならば」の前向きバージョンに耳を傾ける。

 言い換えるとするならば、エナジー溢れる者は、ここ一番というときだからこそ、闇に引きずり込まれることなく、その闇さえも己の燃える魂で照らす、ということだ。それゆえに、そうした者たちの言動が、弱りきった迷える仔羊たちに、愛と勇気と信じる心を与える。のだろう、と、気持ち良すぎるぐらい前向きに、力強く語り終えたAくんに、もちろん私は、清き一票を投じる。

 トンでもない嵐が吹き荒れる、ソンな嵐に見舞われる、という、ココ一番なそのときに、ブレることなく、ドンと構えて、愛と正義のために、どこまでもクールに行動できるエナジー溢れる者たちを、この国の、この星の、さまざまなところで、たしかに、目にする。

 「エナジー溢れる、光り輝くパワフルマン、パワフルウーマン、パワフルヒューマン。そんなパワフルヒューマンたちに、憧れどころか嫉妬までも感じてしまうほど、僕自身もそうありたい、そうあらねばならない、と、思いはするけれど・・・」

 めずらしく、さすがのAくんも、目の前に聳(ソビ)える山のあまりの高さに怯(ヒル)む心を、隠しきれないようだ。

 せめて、そうありたいと思う心だけは、失わないでいたい、大切にしたい、もち続けたい、と、あらためて思う。

 もち続けていれば、いつか、ひょっとしたら、その山の高さに怯む心を、払拭できるかもしれない。(つづく)

 

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.402

はしご酒(4軒目) その百と五十三

「ヒカリカガヤク パワフルマン パワフルウーマン パワフルヒューマン!」①

 とはいうものの、残念ながら、誰しも心の中には、油断すれば、いとも簡単に炙り出される闇がある。しかしながら、たしかに闇はあるのだけれど、むしろ問われるべきコトは、その闇があるとかないとか、というコトなのではなくて、トンでもない嵐が吹き荒れた、そんなココ一番というときに、その闇を上回るだけのエナジーが、ソコにあるのかないのか、というコトなのだ、とAくん。

 闇があってナニが悪い、というオーラを、全身から迸(ホトバシ)らせつつ、その語りは、さらに体感温度を上げながら、熱く続く。

 言い換えるとするならば、エナジーなき者は、ここ一番というときに限って、その闇に引きずり込まれ、魂さえも奪われてしまう、ということだ。そして、その闇で無知と邪念とを主食にして生まれた排他的で利己的な偏見やら差別やらに、まみれにまみれてしまったエナジーなき者たちの、心ない言動の数々が、多くの罪なき人々の心を傷つけてしまうのだろう、と、結ぶ。

 申し訳ないが、Aくんの、その言い替え方が、あまりにもネガティブで後ろ向きなものだから、救われない絶望的な気分にさえなる。

 「言い換えるとするならば、エナジー溢れる者は、・・・という、そんな、そういう前向きな、そっち側の、ポジティブな話の展開などというものは、この場合、あり得ないのですか」、と、心地よい酔いの力も借りて、再び、プチ反旗を翻してみる。(つづく)