ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.401

はしご酒(4軒目) その五十二

「アブリダサレル ヤミ」③

 「平時なら、そうそうその裏側が炙り出されるなんてことはないのだろうけれど、負のエネルギーの嵐のようなものに見舞われたその時から、今まで、何気に封印されていた灰汁が、ブチュブチュと炙り出されてくる」、とAくん。

 「人間やら社会やらの中に封印されていたアクですか」、と私。

 「その、人の中で眠っていた、灰汁、悪魔、が、目覚める。その、社会の中で放ったらかしにされてきた、捨て置かれてきた、弱点、問題点、が、可視化される。そんな感じだな」

 なるほど、と、Aくんの「嵐によって炙り出されるアク」理論に耳を傾けているうちに、なにやら、違和感めいたものが、ポッと頭をもたげる。

 その違和感めいたものをハッキリとさせるために、もたげたその思いを、Aくんに伝えてみようと試みる。

 「そうした悪魔やら弱点やら問題点やら、が、炙り出されること、そのこと自体は、それほど悪いこととは、どうしても思えないのですが・・・」

 するとAくんは、その違和感のボヤけた輪郭に補正を加えるかのように、緩やかに言葉を返す。

 「君の言う通りだ。トンでもない嵐によって炙り出された闇(ヤミ)は、やがて、太陽の光に、その闇の全貌を明らかにされる。このことは、どこからどう見ても悪いことじゃない」

 見えなかったものが、見えてくる。

 見ないようにしていたものが、見たくもなかったものが、目の前に、否が応でも現れる。

 やはり、「炙り」は、魔法なのかもしれないな。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.400

はしご酒(4軒目) その五十一

「アブリダサレル ヤミ」②

 「旨味どころか、むしろ、灰汁(アク)みたいなものが、炙り出される」、とAくん。

 「アクですか」

 「そう、灰汁。旨味を表(オモテ)とするなら、その裏側(ウラガワ)にあるエグ味とかニガ味とか、という、そういうヤツね」

 「裏側ですか」

 「その裏側が炙り出されるわけよ」

 つまり、旨味とアクとは表裏一体、ということなのだろうか。

 「でも、このエイヒレを、いくら炙ったところで、そんなアクみたいなものが出てくるとは、到底、思えないのですが」、と、ほんの少しだけ反旗を翻してみる。

 先ほどより増して、更に不適な笑みを浮かべてAくんは、そんな反旗に動じる様子など微塵も見せることなく、ユルリと語り続ける。

 「その通り、優秀なエイヒレは、アクなんてものとは、もちろん無縁。だけれども、この星に生きる我々人間や、その人間がつくりあげた社会は、となると、そうは問屋が卸さない」

 エイヒレに端を発するエイヒレがらみのミステリーは、人間やら社会やらをも巻き込んで、壮大なサスペンスストーリーに様相を変えつつあるものだから、なんだか妙に、ドキドキし始めてしまう。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.399

yはしご酒(4軒目) その百と五十

「アブリダサレル ヤミ」①

 「ホントに旨いな~」と、もう一切れ、エイヒレを口に放り込むAくん。名探偵は、その旨さの秘密が、まず、そのツケダレにある、と、確信しているようだ。

 そして、トドメの「炙(アブ)り」。ツケダレと炙りとの相乗効果が、旨味を、更にパワーアップさせているのだろう、と結論付ける。

 たしかに、このトドメの炙り、には、底知れぬものを、私も感じる。焼くとも炒めるとも揚げるとも、ひと味もふた味も違う、この手間いらずの一手間は、まさに、「魔法」と言ってもいいかもしれない。

 「ただし、この炙り、炙り出すものが、そうした旨味のようなものとは、必ずしも限らない、というところが、ちょっとしたミステリーなわけだ」、と、なにやら不適な笑みを浮かべながらAくん。

 益々、サスペンスフルな展開を帯び始めた、名探偵の、その語りの行方に、私の興味関心もグググググッと高まる。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.398

はしご酒(4軒目) その百と四十九

「オレヲ テラス タイヨウ」③

 その、海そのものを炙ったかのような匂いにつられて、迷宮から舞い戻ってきたAくんも、舞い戻りついでに、エイヒレを一切れ、ヒョイと指で摘まんで口に放り込む。

 「柔らかい!、旨味の凝縮感もスゴいな」

 私と同様に、大絶賛である。

 そして、いよいよ、あの、待ちわびていた、「俺を照らす太陽がある」の、その、太陽の謎の真相に迫る瞬間が、やってこようとしている。

 大きく息を、フ~っと吐いたあとAくんは、いつも以上にユルリと、ついに、語り始める。

 「イロイロと考えてはみたけれど、アレもコレもと思いもしたけれど、行き着いた先のそのソコにあったものは」

 「あったものは?」

 「この年で、口に出すには、さすがに気恥ずかしくて、憚(ハバカ)られるのだけれど、やっぱり、愛、愛だと思う」、とAくん。

 「あ、あ、愛、ですか」

 あまりに意外な言葉であったので、少し、どころか、かなり、戸惑いさえ感じてしまう。

 「家族であったり、恋人であったり、親友であったり、師匠であったり、あるいは、そのあたりをポーンと飛び越えた、超越した神さまのようなものであったり、という、そういったものの愛が、愛の力が、きっと、彼に、ジワリジワリとエナジーを与え、キラリキラリと光り輝かせていく、みたいな、そんな感じなんじゃないか、って思うんだよな~、僕は」、とAくん。

 「ひとり、のように見えて、実は、決して、ひとり、ではないんだ、僕たちは、ということですか」、と私。

 「そう、ひとり、じゃない。目には見えないかもしれないし、手で触れることもできないかもしれないけれど、諦めない限り、ソコには必ず愛がある、ということだ」

 先ほど感じた戸惑いは、いつのまにかどこかに消え失せ、Aくんの熱き持論に、いかなる躊躇(タメラ)いもなく、清き一票を投じたくなる。

 太陽が、分け隔てなく万人を照らすように、愛もまた、必ずや、万人の手が届く、まさにソコに、あるということなのだろう。(つづく)

 

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.397

はしご酒(4軒目) その百と四十八

「オレヲ テラス タイヨウ」②

 トンと目の前に置かれた、そんじょそこらの居酒屋の定番でもあるエイヒレが、海そのものを炙ったかのような匂いを放っている。放ってはいるものの、女将さんには申し訳ないけれど、エイヒレというものを、いままで一度も、「うまいな~これ」などと思ったことはない。

 期待も思い入れもない、そんな目の前のエイヒレではあるが、全く手を付けないというのもまた失礼かと思い、なんとなく重く感じる箸で、その一つをつまみ上げる。

 「そのまま召し上がってみてください」、と女将さん。

 言われるがまま、そのまま、口に放り込む。

 期待も思い入れもない、ということもあったからかもしれないけれど、そのエイヒレは、まさに「うまいな~これ」レベルの逸品で、つい、声を出して唸ってしまう。

 「美味しいでしょう」、と、ほんの少し勝ち誇ったかのように、女将さん。

 「ぜんぜん違いますね、ナニか秘密でもあるんですか、知りたいな~、教えてくださいよ」、と、なんとも無粋な私。

 「もちろんアリますよ~、でも、企業秘密、ナ、イ、ショ、で、す」、と、とびっきりチャーミングな笑顔で返す女将さんに、おもわず、ちょっと、惚れてしまいそうになる。

 ここにもまた一つ、謎のベールに包まれたものが、などと思いつつ、とてもいい気分で、その逸品を肴に、アテに、オール能登の従兄弟筋をグビリとやる。(つづく)

 

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.396

はしご酒(4軒目) その百と四十七

「オレヲ テラス タイヨウ」①

 自分の力だけで、自分を輝かせることなど、そう易々とできることではないけれど、幸いなことに、俺には、俺を照らす太陽がある、みたいなことを、誰かが言っていた、とAくん。

 俺を照らす太陽か~・・・。

 「俺を照らす太陽。なんか、カッコいいですね」、と私。

 「好きな言葉なんだよな。誰の言葉であったのかは覚えていないけれど、その言葉だけは、なんとなく忘れられないままでいる」、とAくん。

 たしかにカッコいい。でも、そのカッコいい言葉を何度か頭の中で繰り返しているうちに、ナニが、カッコいいのか、そして、その太陽とは、いったいナンなのか・・・、ジワリジワリと謎のベールに包まれ出す。

 「カッコいいですけど、その太陽って、ナンなのですか」、と、Aくんに、その、覆い被さろうとする謎のベールを剥ぎ取ってもらおうと、尋ねてみる。

 「そうだな~」

 そう呟くとAくんは、いかなる謎も解き明かす、ちょっとした名探偵の如く、推理の世界にでも身を投じたのだろうか、再び、しばらくの間、黙りこくってしまう。

 黙りこくってはしまったのだけれど、私は私で、再び、女将さんとのホッコリタイムを、その流れの中でごく自然に、もつことができたわけで・・・。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.395

はしご酒(4軒目) その百と四十六

「ゼントタナン ココロ ノ ジュギョウ」④

 Aくんの、それなりに的を得た熱き愚痴を聞くにつれて、ズンズンと思えてきたことがある。

 不幸にも出番を失ってしまったスーパー先人たちの、その英知と気概と覚悟、そうした境地の数々を、分かりやすく体系化し、そうしてつくり上げられたハイブリッドな教材を、授業で、目一杯、アグレッシブに活用しながら、その、英知と気概と覚悟とを、子どもたちの心の中に、どうにかして落とし込んでいく、ということこそが、ひょっとしたら、真の教育、真の心の授業、なのではないだろうか、と。

 しかしながら、そうは思えてきたりするものの、目の前に立ちはだかるその壁は、思いのほか高く、強固で、だからこそ、あの「道徳」は、その誕生後、衰退の一途をたどり続けているのかもしれない。

 トにもカクにも、大人の事情まみれの教育の現場のその闇は、心底、深そうであり、それゆえ、そこで、もがく心の授業の前途は、やはり、滅法、多難だということだ。(つづく)