ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.408

はしご酒(4軒目) その百と五十九

「ディスカッションベタシンドローム

 たとえば、あのOくんが、あるトンでもない行動をとった、としよう。

 それをZさんが、「多くの人の心を傷つけたわ、とるべき行動ではなかった」、と、断罪する、としよう。

 するとZ’さんが、「君がアレコレ言うのは、おかしい」、と、戒める、としよう。

 さらにAくんも、「じゃ、Zさんの、あのときのあれは、いかがなものか」、と、追い討ちをかける、としよう。

 おまけに私までもが、「Zさんは影響力があるから、発言には気をつけないと。できれば、静観することが望ましい」、などと、知ったふうな口を利く、としよう。

 おそらく、すでに、Zさん以外の三人の頭の中には、Oくんのとったトンでもない行動のことなど、微塵も残ってはいないような気がする。

 そもそも、議論の中心は、その行動そのものであったはずであり、その行動に対するクールな分析こそが期待されるのであって、どこをどう間違えたとしても、Zさんが議論の中心になど、なりようがないのである。

 では、なぜ、このようなことが起こってしまうのか。

 それこそが、ひょっとしたら、この国の特質なのかもしれない。

 小さな島国であるこの国で、古(イニシエ)より美徳とされてきた「沈黙」のその裏側で、反動のようにして誕生したこの風土病のようなもの、それを私は、「ディスカッションベタシンドローム」と呼んでいる。

 この、なんともかんともな議論ベタを、どうにかして克服せしめないことには、様々な場面において、いつまでも、どこまでも、悲しいぐらい的外れのままであるような、そんな気がしてならないのである。(つづく)