ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1116

はしご酒(Aくんのアトリエ) その五百と四十七

「シンネンヲ モッテ」

 「信念」

 ん?

 「信じる念、の、信念ね」

 「し、信じるねん?」

 「その、大阪弁っぽい『信じるねん』じゃなくて、信じるの『信』に念じるの『念』の、信念」

 あ、あ~。

 「その『信念』を、ソレなりに権力を握るある政治関係者が、ことさら、強調するわけよ。『信念をもって発言している。撤回などサラサラする気はない』ってね。たしかに、ソコには、『いい加減な気持ちで発言しているわけじゃないんだ』という、強い意思が感じられる。の、だ、けれど、仮に、万が一、その発言が、民主主義というモノの根本を、完全に履き違えているとしたら、どうだい」

 民主主義を履き違えている?

 履き違える。

 履き、違える、か~。

 考えてみると、この星の長い歴史の中で、そこかしこでエラそうに立ち振る舞ってきた独裁者たちのほとんどは、見事なまでに民主主義を、履き違えてきたような気がする。そして、当然のごとく、まず、撤回などしない。

 「ソレを、信念とは言わないよな」

 おっしゃる通り、ソレを信念とは言わない。

 「ほら、この頃、よく、巷で、『身を切る』という言葉を耳にするだろ」

 「身を切る、ですか」

 「そう、身を切る。この言葉、ナゼか、単なる議員の報酬やら定数やらの削減を意味するように思われがちだけれど、そんな身なら、べつに、切っていただかなくても結構。そんなコトで背負うモノを軽くするのではなく、その報酬に、定数に、見合うだけの真っ当な頑張りを、その背負っているモノに対して見せてくれればいいのだ」

 同感。

 真っ当な頑張りを見せてくれるなら、報酬だって、定数だって、増やしてもらってもいいと、ズッと以前から、私は思っている。

 「本来、本来『身を切る』とは、自ら、己の内側にメスを入れて、正直に、全て、白日の下(モト)に晒(サラ)す、曝(サラ)け出すことができるか、と、いう、その一点に尽きるモノ、で、あるはず。そうは思わないかい」

 なるほど。 

 「我が身を切り裂き、我が身を律する。ソレができないような信念は信念であらず。と、いうことですか」

 「そうだ。信念と『傲慢(ゴウマン)』は違うからな」

 信念と傲慢は、違う、か~。

 「信念も、一つ間違えると、傲慢以外のナニものでもないモノに変容し、相手を叩きのめす『暴力』にもなり得る、ということだ」

(つづく)