はしご酒(Aくんのアトリエ) その五百と三十
「オワライゲイニン ト ポピュリズム」
古(イニシエ)より大衆芸能は、権力者たちを皮肉ったウイットに富んだ笑いに満ち満ちていたような気がする。そうした笑いが、抑圧された大衆の、「コンニャロメ~」というパワーの源にもなっていたのだろう。
だがしかし、権力者がいわゆる「ポピュリズム」なるモノを巧みに利用して、更に強固に地盤を固めていこうと画策しているとしたらドウだろう。
そう、ポピュリズム。
力任せの高圧的な大衆への「圧」ではなく、あの「パンとサーカス」を大いにチラつかせつつ大衆の心を掴んでいく、という、一見、緩やかな「圧」。この圧が、なかなかどうして、かなり厄介なのである。
たとえば、ココに、権力者の、大いなるトンでもない野望があるとしよう。さすがに、一般ピーポーに、そう易々とは支持を得られそうにない。だから、とりあえず、票に繋がりそうな、権力者たちにとって本当はドウでもいいような、そんなコトに手をつける。コレがポピュリズミストたちの常套(ジョウトウ)手段。その場しのぎのカネ(金)のバラ撒きなどは、まさにそのイイ例だ。
人気を得る。
議席数を伸ばす。
より大きな権力を握る。
そして、野望を成し遂げる。
仮に、そんな姑息な手口に、大衆芸能が、笑いが、利用されるとしたらドウだろう。
あのナチスがそうであったように、権力者たちは、オキテ破りのポピュリズムに手を染めがちだ。それゆえ、大衆芸能は、笑いは、お笑い芸人は、常に、権力者たちに利用される危険をはらんでいる。
だから、だからこそ、権力とは距離を置かなければならないのである。そのコトを肝に銘じておかないと、結果として、そうした取り返しのつかないようなトンでもない野望に、加担することに繋がりかねないのだ。
なんとなく、そんなコトをボンヤリと思ったりしながら、少し温(ヌル)くはなったものの、ソレはソレで一層香りが立ってソレなりに美味いオレンジワインを、一口、グビリとやる。(つづく)