ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1049

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と八十

「モチロン イイイミデ ヤッパリ モノヅクリダロ!」

 「ドコから見てもドウ考えても、この国は、もちろんイイ意味で、やっぱり『モノづくり』だろ。コレ以外にナニかあるか?」

 そう、キッパリとAくん。彼の、この、「この国は、やっぱりモノづくり」理論、私も、心底賛同する。

 ナニをされているのか、全くもってよくわからないにもかかわらず、バカみたいにお金儲けされている方々の、その真逆に鎮座するモノづくりのピーポーたち。個人的にも何人か、お会いしたことがあるのだけれど、ほぼ皆が皆、もちろんイイ意味で、「哲学者か」と思ってしまうほどの、実に謙虚な究道者たちであったのである。

 「モノづくりのその『モノ』は、あらゆる分野に及んで多義にわたっているわけだけれど、それぞれのモノづくりの現場におけるその『拘(コダワ)り』は、場合によっては、見方によっては、一種の『狂気』とさえ思えてしまうぐらいなんだよな~」

 きょ、狂気、か~。 

 少し大袈裟なように思えなくもないが、でも、この国の外側から見てみると、たしかに、もちろんイイ意味で、そうした拘りは狂気に見えてしまうかもしれないな。

 そんな、狂気にも程近い熱き「拘り」で、拘りに拘り抜いて納得できるモノをつくり、売り、そして、真っ当な対価を得る。という、この、気持ち良すぎるほどのシンプルでベーシックな商いの本質を軽んじて、ナニが商売か、と、あの、ドコまでも怪しいカネ(金)の亡者たちに、あらためて問うてみたくなる。

 「たとえば、たとえば僕が原発を、もう潮時なんじゃないかと思うのは、原発に、熱きモノを、拘りを、感じる、感じられる若者たちがいなくなりつつあるのでは、と、危惧するからだ。若者たちが熱きモノを抱けなくなった業界に、未来はない。そうは思わないかい」

 思いますとも。

 熱きモノを抱く若者たちがいるから、仮に、トンでもないコトが起こったとしても、ドウにかなるかもしれない、という期待を、私たちに抱かせてくれるのだ。しかし、そんな熱き者たちがいなくなってしまったとしたら、もう、Aくんが言うように、その業界は、終焉を迎えるしかないと、私も思う。(つづく)