ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1024

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と五十五

「シゼンノ リズムニ アワセテ」

 そんなふうに二人して、「全くもって違う」噺に興じていると、ナゼか、ふと、ある女性のある言葉を思い出す。

 愛すること。

 敬意を払うこと。

 私たちは、自然のリズムに合わせて、寄り添うように生活しています。

 ・・・

 そんな言葉をナンの力みもなくサラリと言い放ってみせた、ある、田舎暮らしの若い女性。お母さんと二人暮らしだ。ただし、人間は二人きりだが親愛なる動物たちは彼女たちの周りに数えきれないほどいる。牧歌的とは、まさに、こういうことをいうのだろう。

 おそらく、みんながみんな、彼女のような思いで、価値観で、人生観で、暮らしていたなら、暮らすことができていたなら、今、この世界で起こっている問題の数々は、ほとんど起こっていなかったかもしれないな、などと思ったりする。

 とはいえ、そんな生き方が、現代社会において、そう簡単にできることではないことぐらい、私にだってわかる。いったん覚えてしまった利便性を、受け入れてしまった利便性を、自分の中から払拭することなんて、まず、できやしないだろうからだ。

 さらに、ふと、政治関係者たちが宣いがちな例の言葉を思い出す。

 致し方なし。 

 そう、彼女の「自然のリズムに合わせて」という言葉に少し似ているように見えなくもない、ものの、実は、全くもって非なる言葉、「致し方なし」。

 この「致し方なし」。世の中、キレイゴトでは済まない。ダークなコトに対してダークに対応するコトもまた、致し方なし。ソレが責任ある政治というものだ。という考え方。ドコからドウ考えても、ソレ、オカしいだろ、としか思えないこの考え方が、このところ、妙に一般ピーポーたちの賛同まで得たりしているものだから、ズンと滅入ってしまいそうになる。

 私は、「自然のリズムに合わせて生きる」というコトと、この「致し方なし」とは、ナニからナニまで違った、ほぼ真逆に近いモノだと思っている。

 なぜなら、そういった「致し方なし」には、ほとんどダークなモノしかへばり付いていないのに、「自然に合わせて生きる」には、ダークなモノなど微塵も感じられない、から。いや、ソレどころか、ソコには、人間ごときなどを軽やかに飛び越えた、「聖なるモノ」すら、ごく自然に、さりげなく、あるような気がしてならないからである。(つづく)