ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.995

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と二十六

「ジシタイ ト ヤスモウヨ ト ヤメロヨ」

 不覚にも心を病み、仕事に邁進できなくなり、迷惑をかけるので職を辞したい。

 心を病んでいる時に、そんな大きな判断をすべきではない。今は、まず、休もうよ。

 心を病んで仕事ができないなら、トットと辞めろよ。

 迷惑をかけるので、職を辞したい。

 まず、休もうよ。

 トットと辞めろよ。

 辞したい。

 休もうよ。

 辞めろよ。

 この三者現代社会における、一つの象徴的な三者のように思える。

 真面目過ぎるがゆえに自分自身を追い込んでいく人。そんな真面目過ぎる人に、ナニかしら力になろうとする人。そして、力をなくしてしまった人に、冷酷に引導を渡すことができる人。

 いい悪いは別にして、いわゆる「強さ」なるモノだけで判断するとなると、多分、三番目の人が最も強い、ということになるのかもしれない。しかし、その「強さ」は、私が思う「強さ」とはナニかが違う。

 そもそも、強さとはナニか。

 少なくとも、冷酷に、非情に、一刀両断に切って捨てられるコトではないだろう。むしろ、ソレは、私が思う「弱さ」に限りなく近く、その「弱さ」ゆえの一刀両断であるようにしか思えないのである。

 では、弱さとはナニか。

 少なくとも、心を病むことが弱さではないはずだ。そのコトぐらいは私にもわかる。と、同時に、そんな、強さとか弱さとかのその前に、私たちが忘れるべきではない、忘れてはいけない、コトがあるとも思っている。

 その、忘れてはいけないコト、とは。

 この国の、この星の、どれほどのピーポーたちが不覚にも心を病み、絶望の淵を彷徨(サマヨ)っているか、というコト。そして、ダレもが、ほんの小さなキッカケで、同じように彷徨ってしまうことになり得るのだ、というコトなのである。あえてもう一度言わせてもらうが、ソレは、決して弱さではない。

 そうしたピーポーたちをも含めた、様々な状況に置かれたピーポーたちが、堂々と胸を張ってソコにいられるコトこそが「多様性」であるはず。さすれば自ずと、容易に、本当の「強さ」とはナンなのか、が、ダレの目にもハッキリと見えてくるはずである。

 目の前のテーブルの、妙に美しく感じられる荒々しい木目やら、シミやらキズやらを、ボンヤリと眺めながら、そんなコトをナンとなく考えたりする。(つづく)