はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と弐
「メヲスマシテ ミミヲスマシテ ココロヲスマシテ」
つい先日、ある短編映画の試写会にお邪魔させてもらったのだけれど、と、語り始めたAくん。
試写会?
「我が家から半径1㎞が主なロケ地だったりして、親近感が湧いて、おもわず」
「お邪魔したと」
「そう」
「で、どうでしたか」
「いや~良かったよ。こんな美しいトコロに住んでいたんだな~、と、思ってしまうほど美しく撮ってもらって、感謝、と同時に、あらためて、映画がもつ底力を感じることができたような気がした」
映画がもつ、底力?
「声、人、身体、その指先、森、小川のせせらぎ、セミの抜け殻・・・。ピーンと張り詰めたクールな静寂。の、その中で、眠っていたフォース?、パッション?。が、その静寂の小さな裂け目からジンワリと覚醒する。そういった、普段、感じられない、見えない、感じようともしない、見ようともしない、モノを、ナンとなくながらも感じさせてもらった、見させてもらった、みたいな、そんな感じだ。わかるかい、この感じ」
フォース?、パッション?
相変わらずのわかりにくさゆえ、さすがに100%というわけにはいかないが、その感じ、60%ぐらいなら、なぜか、どうにか、理解できそうな気がする。
「で、その、短編映画の上映のその前に、試写会ということもあって、監督さんから短い舞台挨拶があったわけ」
舞台挨拶?
「その挨拶の中の、ある言葉が、この胸のこの辺りにへばり付いたままなんだ」
ある言葉?
「目を澄まして、耳を澄まして、心を澄まして、ご覧ください」
目を澄まして、耳を澄まして、心を澄まして?
「使い古されてきた言葉なのかもしれないが、その言葉を久しぶりに耳にして、目も、耳も、心も、済ますことなどできなくなってしまっていたかもな~、ってね」
澄まして、か~。
たしかに、溢れ返る邪念やら先入観やら好き嫌いやらのおかげで、その「澄まして」、いつの間にやら知らないうちに、Aくんと同じく私の中からも摘まみ出され、どこか遥か遠くまでポイッと投げ捨てられてしまっていた、などということも、大いにあり得るかもしれない、な。(つづく)